おしらじのあを 第三話

 雲入がもう少し大きくなって男たちの狩りに参加するようになってから、しばらく経った頃です。小さい頃こそしょっちゅう山へ通ったものですが、お父さんは近頃少し疲れると言って、あまり山へ行かなくなっていました。だから雲入もだいたい里で大人の男の仕事をして過ごしていました。

 ある日、狩りの最中、お父さんがイノシシの牙に突かれてひどい怪我をしました。狩りで獣にやられて死ぬことも、病気で死ぬのと同じくらいよくあることでした。
 床に伏したお父さんに、呼ばれてきた峰の巫女様がご祈祷をしてくれましたが、顔色は曇った様子でした。
 この家の年長は雲入の叔父さんでしたから、巫女様は叔父さんに向き直って、怪我人には聞こえないよう小さい声で言いました。
「神によくよくご加護を申し上げはしたが、力及ばぬかも知れぬ。望みを捨ててはならぬが、壺が入用になる覚悟もしておくことじゃ。」
 雲入もまるきり子どもというわけではなくなっていますから、巫女様が何を言っているかわかりました。この時代、現在使っているような木の棺桶はなく、大きい壺を焼いてご遺体を収めるのです。巫女様は、お父さんの怪我は思わしくなく、このまま死んでしまうことも覚悟せよ、と言っているのです。

 雲入は必死に看病しましたが、誰が見ても怪我人が良くないのは明らかでした。
 それで雲入はすっかり山支度をして、叔父さんの前にきちんと座りました。叔父さんも雲入の様子がただごとではないのがわかって、正面にきちんと座り直しました。
「塩原の湯に行こうと思います。」
「塩原に!?それは……いや、お前なら行けるかも知れんがな……」
 塩原温泉をご存知でしょうか。雲入の住んでいるあたりからは、高原山を越えてちょうど反対側に当たります。古くから知られている温泉地で、自噴の源泉があちこちに湧いていまして、怪我や病気によく効くのです。ただ、山奥ですから行くのは大変です。怪我人連れでこの辺りから出かけていこうというには、よほど覚悟の必要な所です。
 死が身近にある時代だとしても、それが理由で簡単に諦めがつくというものではありません。大切な人が命の危機に瀕したとき、このあたりの者たちは最後の望みをかけて、塩原温泉へ連れて行くのです。

 叔父さんは難しい顔をして言いました。
「冬に備えて食べ物を集めねばならぬ時期だ。暇のある者はいない。お前一人で背負って行くことになるぞ。」
 雲入は力強くうなずきました。叔父さんはしばらくうなっていましたが、やがて奥の物入れから一本の矢を取り出して来ました。
「これを持っていけ。お守りだ。」
 叔父さんが大切にしている、黒曜石の矢尻をつけた矢でした。

 このあたりの男たちは皆、弓の名手です。巻き狩りには槍を使いますが、本当は弓自慢のほうが多いのです。けれど矢尻はたいてい、そこらじゅうに落ちている、簡単に手に入る石でした。
 黒曜石はもっと切れ味よく、ぴかぴかきらきらして美しいですから、本当はみんなこれを矢尻にしたいと思っています。高原山に行くと時々見つかりますので、運良く拾った者はそれを使うのです。しかしそれも、他の土地から運ばれてきた黒曜石と比べると、泡が多くて切れ味は良くありません。
 男たちの憧れの矢尻と言えば、南方の山の黒曜石です。
 塩原温泉の評判を聞いて、はるばる西から来る旅人は少なくなく、珍しい文物をもたらしていくことがあります。ここからずっと南西に行ったところに、冬になると人の背丈よりずっと高く雪が降り積もる山があるのだそうです。何でも八つの峰がある山だということですが、もちろん雲入はその山を見たことはありません。
 その山から出る黒曜石は硬く鋭く質が良く、通りすがった旅人がそれを持っていると見るや、村の男たちはこぞってそれを欲しがるのです。旅人にしてみれば簡単に手に入るものではないので出し渋るのですが、ありったけのごちそうを出されたり、毛皮を何枚も積まれたりしますと、まあ一つか二つくらいは矢尻を置いていくのでした。
 叔父さんはたった一つだけようやく手に入れた上等な矢尻ですから、誰にも触らせずにしょっちゅう磨いているのです。それを雲入に与えたのです。叔父さんもよほど腹を決めたのでしょう。

 叔母さんは雲入に食べ物や水を包んで持たせてくれ、しばらく弟の手を握っていました。雲入のお父さんも弱々しいながら姉の手を握り返しました。そして叔父さんの方を見て
「後を頼みます。」
と言いました。叔父さんは頷きました。
「行ってきます。」
 雲入はお父さんを背負って歩き出しました。いつの間にかお父さんは雲入より小さく軽くなっていました。雲入だって大きくなっていたのです。
 叔母さんがわんわん泣き出したのは雲入たちの姿が見えなくなってからでしたから、雲入がそのことを知ったのはずっと後になってからでした。

 水を飲むときだけ休み、雲入は息をつく暇もなく山を行きました。日が暮れてしまうとさすがに動くことができず、火を焚いて腰を落ち着けるしかありませんでした。足が腫れ上がって苦しそうにしているお父さんに水を飲ませ干し肉を食べさせ、自分も飲み食いすると、とたんに睡魔が襲ってきて、雲入は前後もわからず眠りに落ちました。

 夜明け前の寒さで目が覚め、火の始末をし荷物をまとめると、雲入はお父さんを背負ってまた歩き始めました。
 お昼前の頃でしたか、それまで黙っていたお父さんが、
「ででっぽう、ででっぽう。」
と山鳩の鳴き真似をはじめました。
「山鳩がいたかい。」
と聞きますと、お父さんは言いました。
「思い出したぞ、お前、ちいさい頃にこの辺りで迷子になったのを覚えているか。」
「覚えているよ。山鳩一羽しか捕れなかった。」
「ははは、狩人としては情けない腕前だ。しかし、お母さんが死んだばかりで泣き暮らしていたお前が、あの後、お母さんが恋しいと言わなくなったろう。それが不思議でなあ。」
「滝の女神様に会ったからだろうなあ。俺もなんでかはわからないけどなあ。」
「そんな話もしていたな、懐かしいな。その滝はこの辺りだろう。せっかくだから寄っていこう。」
「温泉に浸かってからでいいだろう。休んでいる暇はないよ。」
「いいから、俺もその滝を見たいんだ。スッカン沢まで行ってしまっては酢辛くて水も飲めん。その滝は飲める水なんじゃないか。」
 正直、雲入も歩きどおしで随分くたびれていました。飲める水かどうかはわかりませんが、少し休みたいのも本当でした。

「ここだ。」
 随分古い記憶でしたが、雲入は間違いなくその場所に着きました。崖の上から見下ろすと、すり鉢池がありました。
 青でした。あの時もそうでした。こんな青い水は、あのとき以来見たことがありません。お父さんも雲入の背中でほうと息をついています。
「美しい青だ。こんな青は見たことがない。」
「俺もだ。青い目の女神様がいたんだ。」
 雲入は緩やかそうな坂を選んで降り、お父さんを背もたれがあって池が良く見える岩に座らせました。池に近づいてひとすくい水を含んでみますと、酢辛くもなく、雲入はごくごくと飲んで乾きを癒やしました。竹筒に水を汲んで、お父さんにも飲ませました。

「しかし、滝ではないな。」
「そういえば、滝ではないな。この色この形、池はここで間違いないはずだけどな……」
 お父さんは目を閉じて言いました。
「今日は昔話を思い出す日だ。お前のじいさまが話してくれたのを思い出したぞ。「幻の滝」の話だ。」
「幻の滝?」
「うむ、普段は小さな池だが、大雨の後だけ池があふれるほどの滝が落ちるようになる場所があるそうだ。ただの雨ではだめだ、二百十日ほどの大風雨が降った時だけ、ようやく滝の姿が現れるのだと言っていた。」
 思い返してみれば、あの日は台風一過の後ではなかったでしょうか。今はもう秋も終わりで台風の季節ではありませんから、池には滝がないのかも知れません。

 雲入が思い出の中に沈んでいると、横からお父さんの
「ありがとう。もう、ここまででいいよ。」
という声が聞こえました。お父さんはもう座ってもいられないようで、岩棚に横になってしまっていました。
「お父さん!」
 雲入はお父さんを抱き起こしました。体は熱く、びっしょりと汗をかいていました。
 雲入は動転し、池に向かって叫んでいました。
「女神様!滝の女神様!どうぞ、あなた様の冷たい手をお貸しください!俺の額を冷やしてくださったように、怪我人の体を冷ましてやってください!」
 しかし池はしんと静まり返って、何の答えも返って来ませんでした。
「女神様は、全部わかっておいでだ。もう冷やしても無駄なのだ。」
「お父さん!そんなことを言っては駄目だ!」
「聞きなさい。お前は優しい子だから、俺が死ねば深く長く悲しむだろう、お母さんが死んだ時のように。俺はそれが心配だったのだ。塩原までは保たないだろうとわかっていた。だが、この滝までは、お前の悲しみを癒やした女神の滝にならば、たどり着ける気がしていた。」
「滝の女神などいない!俺の呼びかけに、応えもしないじゃないか!」
「いる。今は水が少なくて滝の姿がないだけで、女神様はずっとここに、永遠にいらっしゃるんだ。だから、お前はさびしくなくなったのだろう?お母さんはずっとお前のそばにいると、わかったからだろう?お父さんも、姿は見えなくなるかもしれないが、いるんだ。何も心配することはない。」
 雲入はお父さんの体にしがみついて、わんわん泣きました。
「お母さんの病気を治して欲しかったんだ!お父さんの怪我を治して欲しかったんだ!嫌だ!嫌だ!嫌だよう……!」
「きれいな青だなあ。美しいなあ。お前の言っていた通りだったなあ。」
 お父さんは穏やかな顔で、静かに目を閉じていきました。
「お前は、お父さんとお母さんの、自慢の息子だよ……」

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