おしらじのあを 第二話

 野分の明日でした。台風一過でまだ風は強く、しかしお日様はさんさんと照って空気を暑くし、空は真っ青に晴れ渡っていました。大風の季節です。またいつ嵐になるかわかりません。嵐の後の山は泥んこで滑りますし、風で倒れた木々が道を塞いでいます。でも、いくつかの嵐が過ぎるのを待つ間に、食べ物はすっかり底をついていました。雲入のお父さんは、少し危険ですが山へ狩りに行くことに決めました。

 雲入も今は山に慣れ、体が軽いぶん、お父さんよりも速く坂道を登るくらいです。お父さんも四六時中雲入を視界に入れておくわけではなくなっています。木の実やヤマイモだけではなく肉だって食べたいですから、獲物を見ればそちら優先で追いかけることも多いのです。

「鳥がいる。」
 お父さんは獲物に狙いを定めたらしく、静かに、しかし素早く走り始めました。その速さに雲入はついていけませんが、もう赤ん坊のように不安になって泣き出したりはしません。お父さんが鳥を捕れば肉が食べられます。ちゃんと半分分けてくれるのはわかっていますから、そのうち追いつけばいいと、でもできるだけがんばって、お父さんの行った方へ走っていたのです。

「!」
 一瞬、何が起きたのかわかりませんでした。
 嵐の翌日です。風に折れて横倒しになっている木々や、ばらばらに落ちている葉っぱは邪魔でしたし、土はぬかるんでいますし、岩は滑ります。すでに何度か転んで、着ているミノは泥だらけです。でも歩けなくなるような怪我をする転び方はしていません。雲入はもう、転び方だって上手になったのです。

 でも、今度の転び方はちょっといけませんでした。急な坂だと気づかないまま、足を滑らせたのです。木々の間から青々とした空が見え、次に暗くなったのは泥の地面を見たのと目をつぶったせいでしょう。体のあっちこっちが木や根っこに何度かぶつかりましたが、どうしようもありません。転げ落ちていった最後にちょっと体が浮き上がったような気がして、雲入は閉じていた目を開けました。

 空の青。
 どうどうと、水の流れ落ちる滝壺の青。
 それから、それから、女のひとが。
 滝壺の、すり鉢のような形の小さな池に、佇んでいる女のひとが振り向くと。
 その目は青く、青く、青く見えました。

 どれくらい寝ていたのでしょう。目が開きませんでしたが、誰かが傍らにいて、その手が額に置かれているのを感じました。ぼうっと熱っぽい頭には、そのひんやりと冷たい手がとても心地よく感じられました。ようやく目を開けますと、気を失う前に見た女の人が心配そうに覗き込んでいるのが見えて、幻でなかったことがわかりました。

 姿形は人のようでしたが、神々しいような清々するような感じがして、女の人は人ではないと思われました。何より、青い目など見たことがありません。大陸にはそんな人もいると旅人が言っていましたが、遠すぎる話です。この方はきっと、山の女神様に違いありません。
 
「どこか痛くありませんか。あなたはあの坂を転げ落ちたのですよ。」
 首を動かして見てみれば、結構な急坂を落ちたものです。体のあちこちを打ったのでしょう、どこが痛いのかわからないくらい色々と痛みますが、不思議と悪い気分ではありません。
 それから改めて横にいる人をみてみますと、青い目の女のひとは、横たわっている雲入の横に座って、額に手を乗せてくれていたのでした。手は本当にひんやりと冷たく、心地よく感じられました。
「いいえ、女神様の冷たい手のおかげで、心地よいくらいです。」

 女神様は何故か、申し訳無さそうな顔をしました。
「私は確かにその滝の女神ですが、神格はとても低いのです。もう少し北のほうにいらっしゃる神々でしたら、怪我など簡単に治せるのですが、私は冷やすくらいしかできないのです。何もしてあげられなくて、ごめんなさい。」

 雲入はずっと熱が下がらなかったお母さんを思い出しました。あの時この女神様の冷たい手があれば、お母さんの熱は引いて、病気は治ったのかもしれません。そう思ったら、目から涙が溢れて来ました。

 泣き出した雲入を見て、女神様は慌てた様子でした。
「どうしました。どこが痛いのですか。」
 雲入は首を振りました。
「いいえ、何もできないなんてことはありません。女神様は、神様でしょう。人間にはできないことができるのです。」

 女神様は何だか悲しそうでした。
「何でもおできになる神様もいらっしゃいます。でも私は、神を名乗るのもおこがましいような、端っこの端っこにいるだけにすぎません。」
「女神様と滝の池は、何もかも青くて、とてもきれいです。やっぱり、人のものではないと思います。」
「それだって天気任せです。この山には、ご自身のお力で青い水を持っておいでの、川の神様が幾柱もいらっしゃいます。私の青はただ、今日の空を映しているに過ぎません。空が青いために、それを映す私も青いだけなのです。曇り空の日には、池も鈍色となります。あなたの褒めてくださる青は、天気の神様のお作りになった青。決して、私のものではないのですよ。」
 女神様はそう言いましたが、雲入は笑って言いました。
「女神様の手は、冷たくて心地よいです。」
 そのまま目を閉じたので女神様の表情はわかりませんが、女神様は冷たい手を額に乗せたままにしておいてくれましたから、雲入の言ったことはちゃんと聞いていてくれたのでしょう。

 雲入はその心地よさのまま眠ってしまおうかと思いました。そうして、ずっと眠ったままになってしまったお母さんも、眠る瞬間はこんな風に心地よかったのならいいな、と思いました。
 が、突然に思い出しました。雲入は思い出した勢いのまま飛び起き、叫ぶように言いました。
「ぼくはどのくらい寝ていましたか!」

 女神様は天を見やりながら言いました。
「ほんの少しだけですよ。ほら、お日様の場所も変わっていません。」
 雲入も見上げますと、昼前の太陽がそこにありました。確かに、さほど時は経っていないようです。
「お父さんと一緒に来たのです。ぼくを探しているはずです。」
 女神様は滝壺を取り囲む岩場や坂を見渡し、一角を指差しました。
「ここはすり鉢の底にあります。あちらの坂が緩やかですから、あそこを登っていくのがよいでしょう。登ったら、沢を下るのではなくて、一番高い方へと登ってお行きなさい。登りながら、大きい声でお父さんを呼ぶのですよ。きっと会えます。」
 体はあちこち痛いですが、幸いにも歩けないほどではありません。それに、池の端に落っこちたので、体中びしょ濡れでした。でもこの天気です、すぐ乾くでしょう。
「ありがとう、女神様。」
 雲入はお礼を言ってから坂をよじ登り、滝壺を振り返りました。女神様は手を振ってくれました。雲入も手を振って、それから走り出しました。

 雲入は女神様の仰ることに一つの疑いもなく、その通りにしました。
「お父さーん、お父さーん。」
 呼びながら上へと登って行きました。しばらく行きますと、何か聞こえました。口をつぐんでじっと聞いてみますと、遠くの方から
「ほーい、ほーい。」
と聞こえました。雲入は息を吸って、できるだけ大きな声で
「お父さーん!」
と呼びました。
「ほーい、ほーい、ほーい!」
と聞こえたのはやっぱりお父さんの声でしたから、雲入は走り出しました。

 お父さんは疲れた顔をしていましたが、雲入を見つけると嬉しそうに笑い、少し泣きました。
「お母さんだけでなく、お前まで山の神様に取られてしまったかと思ったぞ。」
 雲入は首を横に振ります。
「山の神様は命を取る怖い神様じゃなかったよ。」
「そうか、そうだな。とにかく良かった、俺も獲物に夢中になりすぎていた、大した獲物でもなかったのにな。この季節、いつまた大風が吹くかもわからんと思ったら、どうにも心が焦ってしまったようだ。」
 お父さんは狩ったばかりの獲物を見せてくれました。
「ででっぽう、山鳩一羽、本当に大したもんじゃなかったね。」
「ははは、言うな。仕方がない、今日は帰ろう。いつもは来ない山奥にまで来てしまったからな。」
 二人は連れ立って、ででっぽう、ででっぽう、と山鳩の鳴き真似をしながら山を降りて行きました。

 夜床につくと、雲入はいつもお母さんのことを思い出して悲しい気持ちになります。でもその日から、山で滝の女神様に出会ってからは、お母さんを思い出しても不思議と悲しい気持ちにはならず、ただ懐かしく思い出されるようになったのです。
 横になると、女神様のひんやりと気持ちのよい手が額に乗せられるのを感じました。青い青い滝壺の水と同じ色の青い目が静かに覗き込んできます。女神様は何もできないとおっしゃいましたが、やっぱりそんなことはないと雲入は思いました。

 雲入は隣で横になっているお父さんに頭をくっつけて言いました。
「お父さん、明日から大人の狩りに行ってよ。ぼくはみんなで川に仕掛けた罠を見に行くよ。」
 狩場に入るのは大人の男の仕事、川魚を取るのは子どもの仕事と決まっているのです。二人で決まりを破っているのは本当は良くないことだと、雲入だって知っていました。
「そうか。」
 お父さんは雲入をぎゅうっとだっこしてくれました。

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