雲入と滝の姫がいつものように池の端で笑いあっていますと、何やら気配が近づいて来たのです。
「ふん。人間風情と夫婦ごっこなんて、せいぜいあなたにお似合いだわ。」
振り返ると、双子のように滝の姫によく似た娘が立っていました。この姫もまた神気を感じさせ、人ならぬものであるのがわかりました。
「まあ弟姫、よく来てくれたのね。私の瀬の君をまだ紹介していなかったわ。」
「馬鹿言わないで。私のほうが姉じゃないの。」
「……そうね、素廉様。こちらは雲入様です。」
「姉上?あなた様も滝の姫でいらっしゃるのでしょうか。私は雲入です。」
「人間風情が気安く話しかけないで。こんな名無しの半下神を有難がってる人間が、どんな面構えの男だか見に来ただけよ。」
雲入はむっとしましたが、相手は神格ですし滝の姫と姉妹だというのです。あまり荒っぽいことになるのは良くありません。雲入はできるだけ静かに言いました。
「しかし、こちらの滝の姫様も神格ではありませんか。あまり侮るような物言いはいかがなものでしょう。」
「神格、神格ね。でもそれは、永遠にそこに居ます存在をそう呼ぶものだわ。」
雲入は首を傾げました。神とはもちろん、永劫の命をお持ちの方々です。しかし素廉姫の物言いは、この滝の姫はそうではないと言っているように聞こえました。
「あら。あなた、話していないの?そう、そうよね。こんな恥ずかしいこと、とても言うことはできないわ。そこな人間、「これ」はね、とてもじゃないけど神のなんのと有り難がるような者ではないのよ。『空っぽ姫』にすぎないんだから。」
「空っぽ?姫はちゃんとここにいるではありませんか。なぜ空っぽなどと言うのです。」
「ふん。せいぜい事情を知って、がっかりするといいのだわ。」
素廉姫はけらけらと高く笑い、そのまま去って行ってしまいました。
雲入は滝の姫の顔を伺いました。滝の姫は涙ぐんでいるように見えました。
「ごめんなさい、騙すつもりではなかったの。そうね、ちゃんと話しておくべきでした。」
「よくわからなかったのですが、結局素廉姫は姉君なのですか、妹君なのですか?」
「このすり鉢池は、素廉の滝よりも早く生まれたのだと、女峰様がおっしゃっていました。」
「女峰。あの女峰山の神様のことでしょうか。」
「はい、女峰様は何かと私を気にかけてくださって、本当に良くしていただいています。私が姉なのだと女峰様がおっしゃるのですから、それは本当のことなのだと思います。」
「?どちらが早く生まれたか、ご自分でわからないのですか。」
「……覚えていないのです。多分私は、三人目だから。これからお話しするのは、女峰様からのまた聞きで、私の記憶にあるのではありません。」
滝の姫は昔話を始めました。
高原山は、今ではわずかに煙を吐くだけになっていますが、かつては炎で大地を割り揺るがすほどに怒っていらしたのです。そういう働きの中で川や滝などがあちこちで生まれたというわけで、滝の姫もそうして生まれ、少し遅れて素廉の滝も生まれたのでした。「池の滝」と「川の滝」との違いこそあれ、二つの滝の姿はよく似ていましたし、山奥の小さい滝で名付ける人間もなかったものですから、二柱は名も無き小さき姉妹神のように他の神々から扱われていました。
ある時、塩原のほうから珍しく人間がやってきました。どうやらすり鉢池の滝の姿が気に入ったらしく、鼻歌などしながらしばらく辺りをぐるぐるしていました。そうしていきなり、
「命名。素廉の滝じゃ。」
と、「池の滝」に名前を付けたのです。
名前というものには特別な力があります。そう名付けられてから後、すり鉢池の滝を見に来る人間が、ごくまれにですが訪れるようになりました。
しかし、姉妹であるはずの「川の滝」は名無しのままです。誰も訪れることもなく、あまりの寂しさから川の滝の姫は、自分が名無しであることや、人間というものがすっかり嫌いになってしまいました。
さらに悪いことに、似た姿の「川の滝」を「素廉の滝」だと取り違える人間も多かったのです。すり鉢池の滝は雨が降らない時はなくなってしまいますし、滝の姿を見ることができる日のほうが少ない程ですから、無理もない事ではあったのですが。
やがて人間たちも、「池の滝」と「川の滝」は本当はどちらが「素廉の滝」であったのか、わからなくなっていったのです。「川の滝」の姫は、姉妹を取り違えて平気でいる人間というものを、ますます嫌いになっていきました。
ある年のこと。その年は春から一滴の雨も降らず、どこもかしこもからからに干からびました。山が溜め込んでいる豊富な水が出てくる場所に川はありましたから、川のほうは細いながらも一応流れていましたし、川の滝も細々とですが落ちていました。
しかし、雨だけを頼りにしているすり鉢池の水はどんどんと減っていき、終には底をついてしまったのです。
「水が少なくて滝の姿がないときは、滝の姫は眠っているのですよね。」
「はい。姿を保つことも、意識を強く保つこともできませんから。」
「……では、すり鉢池の水がすっかりなくなってしまったら、どうなるのです。」
「空っぽ。あの子の言うことは間違っていません。私の姿も心もすっかり空っぽになって、それまであったことも全部、空っぽに忘れてしまうのです。また雨が降って池があるようになれば姿も心も新しく在るようになります。そういうことが今までに二度ほど、あったようです。私は覚えていません。ですから私が後から生まれた妹姫だというのも、やっぱり間違ってはいないのです。」
雲入は頭を強く殴られた心地がしました。もし長く雨が降らずにすり鉢池がなくなってしまえば、滝の姫も同じく消えてしまって、雲入のことなどすっかり忘れてしまうということではありませんか。お母さんもお父さんもいなくなって、永遠にいてくれると思っていた滝の姫までもいなくなるなんて、考えたくありませんでした。
「雲入様、そうご心配なさらないで。この前に池の水がすっかり乾いたのは、数千年も前のことです。雲入様が一緒にいてくださる間に起きるものとは思えませんもの。」
それはそうでした。でも、どうしたって心配でした。
滝の姫に忘れられてしまうことも心配でしたが、考えてみれば雲入の命は滝の姫の命よりずっと短いのです。雲入が死んだ後、滝の姫を覚えていてくれる人は、繁くこの池を訪れてくれる人はいるものでしょうか。
「先ほど、姉妹姫を素廉様と呼んでいましたね。今となっては川の滝が「素廉の滝」と呼ばれているのでしょうか。」
「私は滝の姿がほとんどありませんもの。元は私に付けられた名前かも知れませんけれど、私でさえその時のことを覚えていないくらいですし、人間たちが取り違えるのも無理はありません。素廉様は私を「名無し姫」とか「空っぽ姫」とか呼んでいます。それも全部本当ですから仕方のないことです。」
事情を知れば素廉姫の怒りももっともではありますが、それにしても何というひどい呼び名かと雲入は思いました。この滝の姫には、もっと相応しく清廉な名があるはずです。素廉の滝とは区別された、忘れ去られることなくこの滝に人を呼ぶことができる、この姫だけの名が。
雲入は空を見上げました。池の形に丸く空いた木々の枝葉の間から、野分が過ぎたばかりの雲ひとつない青空が見えました。そのまま池へと目を落としますと、空の色と寸分違わぬ、底なしの青く済んだ水が見えました。
「そら」
「えっ?」
「以前、あなたの池の水の青色は、空の青色を映したものだと言っていましたね。」
「そうです。私の力で作っている色ではないのです。」
「相応しい名が天より下ったように思えますので、恐れ多いことですが、今よりあなた様に名を差し上げたく思います。素廉の名は姉妹姫に熨斗でも付けてくれてやりましょう。この池は「そらの池」、滝は「そらの滝」、あなたの名前は「空姫」様です。口の悪い素廉様は「から姫」などとお呼びになるかも知れません。でも、あなたは「そら姫」。俺はそう思います。」
「まあ。」
滝の姫は目をうるませて、口の中で「空姫」と繰り返しました。
「雲入様のおっしゃる通り、きっとそれが私の名です。素晴らしい名をいただきました、嬉しい。」
すり鉢池の滝の女神様は、その時から「空姫」と呼ばれるようになったのです。