おしらじのあを 第四話

 雲入は一年の半分以上を山で暮らすようになっていました。お母さんとお父さんのお墓がありますから村を離れようとは思いませんが、雲入にとって大きく重要なことは、いつも山で起きてきました。皆で槍を持って狩りをするのだって嫌いではありませんが、水と食べ物さえあれば他に必要な物とてありません。山には全部あります。何がなんでも里で暮らさなければならないとは思わなくなったのです。

 以前お話したように、本当にすっかり山の中に住んでいる人たちもいるのですが、山にいるからといって一緒に何かするというわけでもありません。彼らは野山の獣のように生きています。つまり、縄張りがあるのです。
 縄張りを少しばかりはみ出たところで喧嘩になるようなこともありませんが、誰かの縄張りだとわかれば、お互い必要以上に近付いたりもしないのです。出くわせば、あっちの崖がくずれて危ないとか、大きい熊を見かけたから気をつけろとか、情報交換はします。出会い頭に喧嘩などするより、そっちのほうがお互いに得ですから。
 そういうわけで雲入は、野宿にも、一人で弓で狩りをすることにも慣れました。村の者たちは、雲入は悲しみすぎて山の神様に魂を取られたのだと言って、無理にどうにかしようとする者もありませんでした。

 雲入が山へ行かないのは、真冬と大風の時です。

 冬はさすがに雪があり、塩原へ行くにしても山を通って行くような者はいません。だから冬だけは決まって男たちの巻狩りに参加するのですが、普段弓ばかり射ているせいか槍の腕は今一つで、あまり役に立たないのでした。
 それでも狩った獲物は皆で食べる決まりですから、分け前が無いということはありません。「働かざるもの食うべからず」という言葉がありますが、この時代にはまだありません。特に食べるものに関して、「自分のもの」という考えがない、と言えばいいのでしょうか。食べ物があったら皆で分け合うのが当たり前なのです。独り占めするような人はいません。
 ただ、子どもや年寄りなら遠慮なくいただけても、働き盛りの大人の男であれば、いささか肩身が狭いのも本当です。のけ者にされたりはしませんが、やっぱり山で弓を取っていたほうが気楽だと、雲入は春が来るのが待ち遠しくなるのです。

 嵐が来そうな時は峰の巫女様がふれて回るので、家から離れる者とていません。川があふれるかもしれませんから、いざとなったら大事な物をかついで、川前の高台へ登る用意をしておかねばならないのです。家だって今とは違って、穴を掘って柱を立てたところに茅をふいただけの簡単なものです。大嵐が来れば吹き飛んでしまう事だってあるのですから、あらかじめ家をすっかり空けて、近くの洞窟で過ごす者もいました。山へ行くなんてとんでもない話です。
 夏の終わりにはそんな日が多く、数日も家に閉じ込められることが続くと、雲入は山へ行きたくて行きたくてそわそわしてくるのです。
 台風は、過ぎてしまえば翌日は確実に晴れです。いくら風が強くても、雨さえ降り終わってしまえば、雲入は勇んで山へ飛んでいってしまうのでした。

 その日も台風の翌日で、雲入は空と同じく晴れ晴れとした気分で山へ出かけたのですが、さすがに足場が悪く距離を稼ぐことができません。その日は山の真ん中で野宿することにしました。

 山が一番深い辺りは、本当に誰もいません。一番高い場所は、雲入の家も幾筋もの川も周囲の山々も、八方を一望できる見晴らしの良い所です。
 天気が悪い日は雲しか見えませんが、雲海だって美しいものです。初夏には一面にツツジが咲き誇り、本当に夢のような景色なのですが、冬は雪深く、人の住む場所からは遠すぎます。
 雲入はここへ立つといつも、この景色を一人だけで見ているのはもったいない、誰かが隣にいてくれるといいと思うのですが、人を一緒にここまで連れて来るのは現実的ではありません。どの村からも一番遠い場所がここでした。お父さんとは何度か来ましたが、そういう時は遠出しすぎていて、その日のうちには帰れない事がほとんどでした。今は山で野宿する日も多く、その気になれば来られる場所ではあります。

 この辺りが人を遠ざける要因がもう一つあります。
 しばらく北西へ行った山には塩原の温泉が湧いているわけですが、この近くではお湯が湧く場所がないのです。傷を癒やす湧き水や川の流れはあるのですが、とても冷たいか、ちょっとぬるい程度にあたたかいだけなのです。真夏であればともかく、冬場は寒くて寒くて浸かれるようなものではありません。
 そして傷を癒やすような強い水には、強すぎて魚が住めないのです。口に含むと酢っ辛いような味がして、ちょっと飲みすぎるとお腹が痛くなりますから、飲み水としても使えません。水も飲めない、魚も捕れない水場がほとんどなので、わざわざ苦労して人里からここまで来る理由がないのです。山男たちだって、もっと実入りのいい狩り場のほうがいいですから、この辺りで姿を見かける事はほとんどありません。

 雲入も背に腹は変えられませんから、よほどの事がなければ普段はこんな所へは来ません。景色の良い場所なら他にもあります。秋の八方湖などは、赤や黄の紅葉が水面に映えて、実に美しいものです。お弁当を広げるにしても、雲入はだいたいそっちを選んでいました。昨夜このあたりのほら穴に泊まったのは偶然です。ウサギを追っていてたどり着いたのです。

 早朝の八方ヶ原から下界を見下ろしても、まだ全ては霧の中でした。日が昇れば雲海も晴れてくるでしょうから、のんびりそれまで座って待つことにしました。昨日ウサギを一羽狩ったので、今日は何も慌てる必要がありません。
 山から見る下界の景色はいいものです。平地の川も全部見えますから、叔父さんたちの家はこのへん、川前の山はあれ、巫女様のいる峰の森はあそこと、場所の見当がつきます。近隣の山々もすっかり見えます。
 でも雲入は、他の山に行ってみたいとは思いません。雲入にとって山とは、この高原山です。
 西の方から来た旅人が、この八島で一番高いのは不死の山だと言っていました。何しろ一番高いのですから、天気さえ良ければここからも不死の吹く煙が見えるはずだ、と。来る旅人皆がそう言いますから、不死山とはよほど高い山に違いありませんが、雲入にはどれがその山なのか見分けがつきません。不死と呼ばれるくらいですから、そこに居ます神様は、人を死なないようにすることができるのかもしれません。本当でしょうか?本当にそんなことができるものなのでしょうか?
 ぼんやりそんなことを思っているうちに、日はずいぶん高くなっていました。でもやっぱり急いではいないので、雲入はゆっくりぶらぶらと坂を下り始めました。何となくですが、今日はどうせならあまり行ったことがないほうへ行ってみようと思いました。

 それもやっぱり偶然でした。雨の後で崩れやすくなっていますから、崖に近づくのは危険です。でも、雲入は思わず崖の端っこに立ってしまいました。

 空は晴天。
 とうとうと落ちる滝。
 そして、すり鉢の底の滝壺の、青、青、青!

 ここへ来るのは三度目です、あまり来ない辺りですから。小さい時に転げ落ちた記憶はあります。お父さんが死んだ時のことも覚えています。
 確かに、間違いなくここです。滝の女神様の、すり鉢池に来たのでした。

 雲入は何かに取り憑かれたように、脇目もふらずに池の端へ降りていきました。昔のように、滑って転ぶようなへまはもうしません。それにしてもこの池は、なんという青でしょうか。そして、滝の女神様もそこにいらっしゃいました。

 雲入はちょっとびっくりしました。幼い頃に見た時は、大人の女の神様としか思わなかったのですが、今こうして見ますと、女性と呼ぶには少し幼いような頼りないような、ずいぶんと若い女神様だったのです。お父さんが死んだ時は姿を見ませんでしたから、今日初めて姿を見たような気さえしました。
 でもあの青い目は、間違いなく滝の女神様です。そして雲入の心には、急に怒りがこみ上げてきたのでした。

「お聞きしたいことがあります。」
 雲入は怒りのままに女神に話しかけました。
「あら……」
 女神様は、急に話しかけられて驚いたのでしょうか、雲入を振り返って目を丸くしています。
「私が見えていますのね。」
「見えています。お聞きしたいのです。父がここで死んだ時、なぜ姿を現してくださらなかったのですか。俺は、女神様が父の怪我を治してくださるのではないかと思っていたのです。」
「まあ……」
 雲入は知らないうちに泣いていました。女神様はしずしずと池を上がってくると、いいこいいこをするように雲入の額の辺りをなでました。ひんやりと冷たい手でした。
「それは悲しゅうございましたね。あなたのことは覚えています。ごめんなさい、何も出来ない半端な神で。そうね、今日は大雨の後で、滝が落ちているのね。」
「お答えください!何故あの時、父にあなたの冷たいお手を貸してくださらなかったのですか!」
「ごめんなさい、ごめんなさい。」
 女神様は腕を強く掴まれて、つらそうな様子で顔を伏せました。
「今日は滝がありますので、私もこうして姿を現すことができています。でも、水が少なくて滝がない時は、この姿を保つことさえできないの。」
 雲入はあっと気が付きました。そう言えば父が死んだ時、すり鉢池に滝は落ちていませんでした。
「あなたのお父さんに何があったのか、覚えていないのです。滝がない時は、私も半分消えていますから……そういう時は記憶も何だかぼんやりして、ただここにいるだけなの……です……」
 雲入は、女神様が泣くのかと思いました。それで、自分の背よりずっと小さい女神様を、包み込むように抱きしめました。今度は雲入が謝る番でした。
「謝るのは俺のほうです、ごめんなさい。あのときは俺も頭が一杯で、簡単なことに気が付きませんでした。ごめんなさい、父が死んだのは女神様のせいじゃないってわかっていたのに、誰かのせいにせずにはいられなかったのです。俺の心が弱いのです。」
「いいえ。身近な方が遠くへ行ってしまう時、心は普通ではいられません。謝らないで。それは当たり前の事ではないかしら。」
 女神様は優しいかたでした。きっと最初からです。坂を転げ落ちた雲入を心配して、額に手を置いてくれたのですから。もしあの時、父が死の間際にあるとご存知ならば、やはり手を差し伸べてくれたのに違いありません。ただ、そうできなかっただけなのです。
 それで雲入は気が付きました。最初は、父が死んだことが悲しすぎて、それが怒りにすり変わったものだと思っていたのです。でも、もう一つの気持ちがあったのかも知れません。滝の女神様が、人の死を悼み悲しまないような心の冷たい方だった、と思う事が、雲入には耐えられなかった。どうやらそういう事だったのかも知れません。
「女神様。何も出来ないなどと、そんなことはありません。あなたは慈悲深い、お優しい方です。俺はあなたに救われてばかりです。」
 顔は見えませんが、女神様はちょっと笑ったようでした。
「そんな事を言ってくださるのはあなただけです。こんな辺鄙な所です、人さえ滅多に見ませんから。」
「……お寂しいのですか?」
「私の池の水は何の効能があるでもないただの水ですから、スッカン沢とは違って、魚やサンショウウオやヤゴや、色々住んでいます。まったく私ひとり、というわけではないのですよ。」
「それなら良かった。でも、」
名残惜しく感じましたが雲入は女神様から体を離し、その冷たい手を取りました。
「今度はこの場所がはっきりわかりました。さすがに毎日とはお約束できませんが、きっとまた来ます。」
「まあ。」
 滝の女神様の顔が、花が咲くようにほころびました。
「あなたは私にできた初めての人間のお友達です、嬉しい。今度来る時は、どうか人の暮らしのことや、山のことをお話してくださいな。私の力は弱いので、ここからあまり遠くへ離れることができません。この山のことすら良く知らないのです。」

 それからは、雲入が山へ行くといえば、目的地は女神の滝となりました。
 人里から人を連れてくるには遠すぎる場所ですが、女神様はいつも山頂近くにいらっしゃいますから、会いたくなれば雲入さえ自分の体をここまで運んでくればいいのでした。
 いつ女神様が姿を現すかもだんだんわかってきました。大雨の後は決まって、雲入は勇んで山へ向かうようになったのです。地盤がゆるんでいる時は危ないですから里の者はわざわざ山へ行ったりしませんので、雲入はやっぱり一人で山を行きました。

 そして山の上では、何でも滝の女神様と二人で一緒に見たのです。眼下に広がる雲海も見ました。大間々に咲き誇る赤や桃色のツツジも見ました。ぴかぴかの黒曜石のかたまりも見ました。白樺の続く山道も見ました。山鳩やセキレイも見ました。池の中いっぱいにイワナやヤマメがぴんぴん泳いでいるのも見ました。シイタケやサルノコシカケも見ました。蘭も、カタクリも、岩鏡も、小さい花たちの群れをたくさん見ました。
 なぜでしょうか、二人で見る景色は、一人で見ていた景色よりもずっとずっと、清らかで美しく雲入には見えたのでした。滝の女神も、美しいものを見る時に傍らに誰かがいてくれることが、本当に本当に嬉しく感じていたのです。

「まあ!」
 雲入が里から運んできた蛍かごの中で光る蛍に、滝の女神は目を丸くしました。
 雲入がこんな真夜中にすり鉢池を訪ったのは初めてでした。昼間では蛍を捕まえることができませんし、明日の朝になってしまっては蛍の光が消えてしまいます。あらかじめ蛍かごを編んでおいて、夕方になったらすぐにありったけの蛍を捕まえて入れ、急いで山を駆け上がってこなければなりませんから、どうしたってこの時間になってしまったのです。高い山の上には蛍はいません、地上で捕まえてくるしかないのです。
「これが話に聞く、蛍というものなのね。本当にぴかぴか光るわ、まあ、まあ!」
 滝の女神様は初めて見る蛍の光に、幼子のようにはしゃぎました。
「夜にしか見られませんから、急いで来たんです。こんな夜中にお邪魔してしまって。」
「いいえ、とても嬉しいわ。話だけは聞いていましたけれど、自分の目で本当に見ることができるなんて、思っていませんでしたもの。」
 女神様は後は黙って、うっとりと蛍の明滅を眺めました。こういうときにそっと抱き寄せても、女神様は雲入を邪魔にしたりしません。
「滝の姫。蛍がなぜ光るのか、ご存知ですか。」
「さあ、私は蛍のことはわかりませんもの。教えてくださるのでしょう?」
「これは、求婚している光なのです。光りながら飛び回り、生涯の相手を探しているのです。だから飛んでいるのは男蛍だけです。」
「まあ、そうなのですか、知りませんでした。」
「知りませんでしたか。」
「ええ。」
「違います。俺もこの蛍と同じ気持ちだということを、です。あなたを心から求めていることに気づいて欲しくて、あなたの回りばかり飛び回っている。」
 雲入は真剣に滝の女神様を見つめました。滝の女神の青い瞳に、幾筋もの蛍の光が映って見えました。
「青い滝の姫。」
「はい。」
「謹んで、求婚致します。どうか、妻になっていただけませんか。」
「!」
 滝の女神の目にじわじわと水の玉が膨らみ、目の端からこぼれ落ちてゆきました。
「私、私。」
 滝の女神は、暫くは声になりませんでした。
「こんな山奥の小さな池の、いるかいないかもわからないような私を見つけてくれた方がいらしただけで、この上もないことと思っていたのに、ああ、どう言ったらいいのか……」
 雲入は静かに小さな体を抱きしめました。拒絶はありませんでした。地面に落ちた蛍かごの隙間から蛍たちが飛び出して、明滅が辺りを照らしました。

 そうして二人は、互いを想い合う夫婦になったのです。

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