おしらじのあを 第六話

 その年は空梅雨でまったく雨が降らず、二百十日になっても雨風のひとつもないおかしな天候でした。川底はすっかり底が見えて、申し訳程度に残った水に魚がぎゅうぎゅうに取り残されているものですから、何の道具もなくてもつかみ取り放題になったくらいです。しかしその状態も長くは続かず、水がなくなった魚は息も吸えずに浮き上がってしまいました。できるだけ拾い上げて日に干しましたが、大部分は川で腐ってしまいました。
 食べられる種ができる草も枯れてしまい、いつもの年ならまずくて食べずに捨ててしまうような草や実まで取って食べなければなりませんでした。
峰の巫女様が川前でご祈祷をしましたが、目立って効き目は見られませんでした。

 雲入もいつもと違う場所で勝手の違う食べ物を探すのに忙しく、なかなか山の上まで出かけることができずにいました。どちらにしろ雨が全く降らないのでは、空姫は姿を現すこともできないでしょう。それで、何が起きているか知るのが遅れてしまったのです。

 空姫の池の前へ立った雲入は呆然としました。池の水がごっそりと減っていて、底にわずかに残っているだけになっていたのです。山の中も日照りの影響でひどい有様でしたが、ここまで池の水が減っているとは思いもよりませんでした。

 これが底をついてしまえば、雲入が知っている空姫はすっかり消えてしまって、雲入と過ごした日々のことも忘れてしまうのです。雲入は一度は膝から力がなくなって座り込んでしまいましたが、そんなことをしている場合ではないと、気を取り直して立ち上がりました。空姫を守れるのは雲入だけです。

 雲入は急ぎ村へ戻り、本当はご遺体を入れるために用意されている大きな壺を背負って再び山に入りました。それが村にある壺でいちばん大きかったからです。
 壺だけでも重いものですが、雲入はものともせずにこれにたっぷり水を入れ、すり鉢池に流し込むことを何度も繰り返しました。素廉の滝の川とを、一体何往復したでしょう。壺に蓋はありませんでしたし、重さと疲れで足元が覚束なく、転んで水をこぼしてしまったことも数え切れませんでした。杉の皮で簡単な蓋を作りましたが、あまり役には立ちません。いくらたっぷりに水を入れても、空姫の池に着く頃には、水は半分くらいに減ってしまっているのでした。
 雲入は寝食も忘れ、昼となく夜となく水を運び続けましたが、真昼間となれば強烈な陽の光が照りつけ、片端から池の水を乾かしてしまうのでした。

 疲れでいつの間にか池の前で寝入ってしまった雲入でしたが、何やら気配と物音で目を覚ましました。目を開けると見えたものは、空っぽ寸前の池を背景に飛び込んできた、目に眩しいほどの純白と緋色でした。
 絶世の美女とはこのことでしょうか。見たこともないようなすべすべした布でできた白い着物の袖がひるがえり、これまた見たこともないような赤い色の幅広の袴が、目にも止まらぬ速さで目の前を過ぎってゆくのです。長い黒髪に金のかんざしが揺れ、つり上がった眼はきつく見えますが口元は笑ったようで、顔は白く唇は赤いのでした。この辺りの者がする化粧ならば、まじないの文様を黒く体に描くものですから、身につけている衣服といい、どうも近在の者とは思えません。それどころかまとう雰囲気からして、人間であるかも怪しいものです。
 雲入はまだ夢の中にいるのかとも思いましたが、通り過ぎる女人と一瞬ですががっちりと目が合いましたから、やはり目は覚めているようです。
 気になったのは、白い背中に数本の矢が刺さっており、これもまた真っ赤な血で濡れていることでした。明らかに手負いなのです。狩りの最中に誤って人を射てしまうことはあります。しかしそうであれば、射た者が慌てて手当てをするでしょう。この白赤の女人は、この矢の持ち主から逃げていることになります。女人は近くの茂みに飛び込みました。

 すぐに別の物音がしました。向こうの薮を分けてがさがさやってくるのは、女人に矢を射た人間でしょうか。女人の俊敏さに比べればいかにも鈍重な様子で、音がしてから姿を現すまで随分時間がかかっているようです。
 やがて二人の壮健な男が見えました。やはり見たこともないような着物と髪の結い方で、ずいぶん遠方からやってきたのではないでしょうか。
 雲入は起き抜けで寝転がったまま顔だけ上げている状態でしたから、男たちからすれば寝ぼけているように見えたかも知れません。

 男の一人が言いました。
「我々は都の大王の直属の部下だ。勅命により化け狐を追ってここまで来た。女のような狐のようなものが通ったはずだ。どこへ向かった。」
「化け狐?」
「大陸から渡ってきた八つの尾を持つ女狐だ。人の姿に化けて、事もあろうに大王様をたぶらかしたのだ。どうもおかしいとは思っていたが、とうとう尻尾を出しおった。しかし逃げ足が速くてな。」
「だから大王様に犬をお借りしてくれば良かったのだ。」
「イヌ?」
「大陸の狼の小さいやつだ。言うことをよくきいて鼻も効く。獲物の匂いを追いかけさせるのだ、狩りにとても役立つ。」
「しかし犬は数が少なく貴重なものだ。まさかお借りするわけにもいくまいよ。」
 どうも大陸からは雲入の知らないものが色々と渡ってきているようです。

「ここで昼寝をしていたのですが物音で目が覚めました。何かしら通っていったかも知れませんがはて、どこへ行ったものかは……」
「この近くに効能あらたかな温泉地があると聞いた。相手は手負い、矢傷を癒やすために温泉地へ向かうのではないかと考えている。」
「塩原温泉ですね。それならあちらの方向へ、一旦峰に登って山の向こうへずっと行ってみてください。道は険しいですから、じゅうぶんお気をつけて行くことです。」
「そうか、では行ってみよう。」

「それにしても、時々旅の人はやってきますが、お二方のような姿格好は見たことがありません。その布など、どのように作ったのか想像もできないのですが。」
 今雲入が身につけている村の女たちが織った草の布でも、山の者たちの毛皮に比べればずっと軽く着やすいものではありますが、筒状に縫っただけの服です。二人の男が着ているものはもっと滑らかで目が細かい布が、体にぴったり合った形に縫われているのでした。技術が全く違うのが見るだけでわかるのです。

「このような東国にいてはピンとこないかも知れんがな。都はずっと大陸に近い。新しいものは全て、大陸から来るのだ。この東国もやがて大陸ふうの生活に変わっていくだろう。この辺りではまだ神の声を聞く女が村を治めているのだろう。我らが大王は大陸ふうだ、強い男がお頭なのだ。」

 神様のお告げをきいて未来を知ることができるのは女と決まっています。男が村を率いているなど聞いたことがありません。都とやらは、この近辺とはだいぶ事情が違うようです。

「これは大王様からくだされた貴重な剣だ、これも初めて見るだろう。」
 男二人は腰に下げている棒のようなものを見せてくれました。しかしこれが何でできているものか、全くわかりません。見た感じ木や石ではないようですし、何に使うものなのでしょうか。手渡してきたので受け取ってみたところ、ずっしりと重く危うく取り落としそうになりました。手触りも初めてのものです。

「この金物というものも大陸渡りだ、木石などよりずっと丈夫なのだ。」
「しかし、どうも重すぎるようです。槍にしては短かすぎますし、矢に作るにしても重くて飛ばないのではありませんか。狩りに使うには不便に思えますが。」
「狩りに使うのではない、戦に使う武器だ。木では折られてしまう、石では砕かれてしまう。金物の武器を持っている者が勝つ。」
「いくさ?」
「人間と人間が殺し合うのだ。」

 今度こそ理解できませんでした。男たちが弓矢や槍を持つのは狩りのためで、その日の糧を得るのが目的です。雲入の村の男たちは力自慢に相撲をとることはありますが、相手に怪我をさせるほど投げ飛ばすようなことはしません。ただでさえ病気や怪我で簡単に命は失われていくのです。働き手が減るのは損失でしかありません。

「食べもしないのに人間を殺す意味がわからないのですが。」
 それとも人を殺して食うのが都ふうなのでしょうか。だとしたら随分野蛮なところです。
「食うために殺すわけではない。相手が持っているものを丸ごと手に入れようとするなら、相手を亡きものにするのが手っ取り早いだろう。だからお頭は力が強く人殺しがうまい男であらねなならんのだ。女の細腕では大王は務まらん。これも大陸渡りのやり方だ。」

 言っていることはわからないでもありませんが、どうもあまり賛成する気持ちになれません。どうして独り占めにしたいのでしょうか。何でも皆で分け合えばいいだけです。殺して全部手に入れたとして、十人分の食べ物を食べることはできないでしょう。やっぱりよくわかりません。
「まあ、お前にもいずれわかる。温泉への道案内をしてもらったから、礼としてお前に教えるのだ。金物の武器を持った大王の手の者たちが戦を仕掛けてきたら、手を上げて降参することだ。従順にしていれば大王は下働きにでも使ってくれるだろう。さもなければ男は殺され、女は奪われることになる。木や竹や石の槍では、金物の武器には敵わないのだからな。」

 男二人を見送って姿が見えなくなった頃、草かげから狐の女がすうと音もなく姿を現しました。
 言われてみれば顔は人のようでもあり狐のようでもあり、しかし大変な美女であることも間違いありません。乳と尻はたわわに実った丸い果実のようで、都の大王がまいってしまったのもわかります。雲入だって男ですから。
 それはともかく、まずは背に刺さった矢を何とかせねばならないでしょう。
「狐の姫よ、矢傷の手当てを。まずは矢を抜かねば。」
 女狐は首を振ります。
「痛みはあるが大事ない。ここで抜いては血が噴き出そう。件の温泉に行って傷を癒そうと思っておったのじゃが、あの二人組が先回りして見張っていような。」
「そのことだが、少し遠いが那須にも良い温泉があるそうだ。こちらから山を下っていって、ほら、向こうに見えるあの山が那須岳だ。あの山に行って養生するといい。お前の足ならひとっ飛びだろう。」
 狐の姫の口元は相変わらず笑った形で、雲入が吸い込まれるように見つめていると、形の良い真っ赤な唇が動きました。
「知っての通り、妾は化け狐ぞ。何故あの者らに隠れ場所を告げなんだか。」
「怪我をしていては大したことはできないだろうし、俺は狐殿が都の大王とやらに何をしたのか、この目で見たわけじゃない。今日は狩りをする気分でもない。というか多分、あの二人があんまり好きになれなかったせいだ。大陸ふうの服やら技やらは確かに凄いけれど、使い方は良くない気がする。」
 狐の姫はただでさえ細い目をすうと細めました。もしかすると笑ったのかも知れません。

「大陸はのう。生まれ故郷ではあるが、妾にはどうも住みにくくなってしまってな。昔は人間も必要以上に勢力を広げることはなかったのじゃが、金気の武器ができ、人の数が増え、養うための穀物を植える森を焼き払うようになると、多くの生き物が住処を追われた。妾も森に迷い込んだ人間たちを化かしてからかう気楽な生活ができなくなってしまった。それで海の向こうに見える島を目指し、こちらに渡ってきたというわけじゃ。」
 狐は化かすものと相場が決まっていますが、海の向こうでもそこは変わらないようです。

「しかし、渡ってきたのは妾だけではなかった。大陸の文物を持って、人間たちもどんどん渡ってきておるのじゃ。水は低きに流れるのみ、良いも悪いも区別はない。とうとうこの島々にも大陸ふうの考えに感化される者たちが現れ、戦好きの大王などという輩が幅を利かせるようになり、妾が身を落ち着けようとした森を切り開いて、城を構えてしまったのじゃ。そうとなれば妾にできることは、人を化かすより他はない。城の者共は、妾が浪費して城を傾けるなどと言うがのう。」
 女狐はすうと雲入に顔を近づけ、にやりと笑うのです。何だかとてもいい匂いがして、雲入はどぎまぎしてしまいました。
「天下の大王様を妾の手練手管で気持ちよーくしてやったのじゃ。そのためのきれえなべべに紅白粉じゃ。用あるものを求め正当な対価を得たに過ぎぬものを、何故文句を言いよるのか、わけがわからぬ。」
 女狐はまるで悪びれないのでした。狐の善悪の基準などわかりませんが、本当にただのいたずら好きに過ぎないのかも知れません。

「さて、妾はそなたに助けをいただいた。何ぞ礼をしたいものじゃが、妾にあるものと言えばこの肉くらいじゃ。そなたも男なれば、都の大王にしてやったようにするのがよろしかろうな?」
「そ、それは。いや、俺には妻がいるのだ。」
「ほう、奥方に操立てして妾になびかぬか。それはそれは、そなたの奥方とやらは、妾などよりずっと魅力的なのであろうな?」
 女狐が体をすり寄せてきますので、雲入は居心地が悪いような良いような、妙な気分になってきます。雲入は頭をぶんぶん振りました。
「ええい、それどころではないのだ!俺の妻の命は今、風前の灯火だ。礼と言うなら狐の姫には、どうか妻をお助けいただきたい!」
「ほう?どうやらからかいが過ぎたようじゃ、ほ、ほ、ほ。まあ、まずは事情を話してみよ。」

 雲入は、空姫の池の様子と水の壺を示し、空姫の存在を保つためにどうにか池に水を入れたいのだと話しました。
「ふむ。全部を助けるほどの力は妾にはないが、半分くらいならよろしいようにできようほどに。あとの半分はお前がどうにかするのじゃ。」
「半分。いや半分でもいい、どうすればいい。」
「暫し。」
 狐の姫は辺りを見回し、朽ちて倒れたものか、太い赤松の倒木を見定めると、何やら口の中でぶつぶつ言い始めました。そして
「えい!」
と気合をかけますと、赤松は不思議に光り、やがて静まりました。

「さて、これからが手間がかかるぞ。この木の中には二ふりの面が眠っておる。」
「面?顔にかぶるお面のことか?」
「その面じゃ。そなたの村に、木で何かこさえるのが得手な者が一人や二人はおるじゃろう。本当に得手な者というのはのう、木が「何になりたがっているか」自ずとわかるものなのじゃ。その者が本物ならば、この木を見せただけで何も指図せずとも面を二つ削り出すじゃろう。」
「そういうものか。」
「そういうものじゃ。どんな姿の面が出るかは妾にはわからぬ、それはそういう者にしか見えぬものよ。」
「はあ。」
「妾にわかるのは、面の一つは日を照らせ、面の一つは雨を降らすだろうということじゃ。」
「何!」

 そんなことがあるだろうかとも思いますが、相手は妖力を持った狐です。あるのかも知れません。雨さえ降れば空姫の池は水で満たされましょうし、日照りで困っている人や生き物たちもおお助かりです。これはどうでもやり遂げねばならないようでした。
「雨を降らせるためにそなたのやらねばならぬは二つ。まず、木をよく知る者にこの木を託し、面を打ち出させること。もうひとつ、面の力を引き出し、天候の神のご機嫌を伺うことのできる者に『降り面』を託し祀らせることじゃ。」
 雲入はもう居ても立ってもいられません。太い赤松の丸太をひっつかみ、水の壺を背負ってきた背負子の縄で、今度は丸太をくくったのです。
「狐の姫よ、いずれ礼は申し上げる、今は急がせてくれ!」
「何の、妾が礼でやったのだからその礼は要らぬことよ。妾は玉藻、暫くは那須で養生することにしよう。」
「俺は雲入、失礼する!」
 雲入は駆け降りる勢いで、坂道のほうへ丸太を引っ張り降ろし始めました。

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