おしらじのあを 第七話

 転がるように雲入は村へ駆け戻り、夜半となってはいましたが峰の巫女様の神殿におしかけました。誰に面を打ってもらうべきかの見当がつかず、ここは相応しい者を巫女様に選び出していただくのがよいだろうと考えたのです。
 巫女様はすでに寝んでいましたが、雲入の勢いがただごとではないので起きて話を聞くことにしました。
 山で起きたことを話して聞かされるうち、巫女様の表情にも明るいものが差してきました。雲入の言うことが本当ならば、「降り面」に雨乞いすれば雨が降るのです。もちろん巫女様もこの日照り続きに幾度も雨乞いの祭りをしているのですが、残念ながら声は天に届いていないようで、雨の神様にお働きいただくには至っていませんでした。

「萩、牡丹。夜分にすまぬが甚五郎を呼んできておくれ。」
 萩と牡丹は巫女様の身の回りを手伝っている娘達で、どちらかが次の巫女様になるのだろうと見られています。もう夜ですから男の雲入が行くべきなのかも知れませんが、正直雲入は山を走り通しでもう一歩も動けません。

 甚五郎は村では日陰の存在です。目立つこともなくひっそり暮らしている男です。
 村で花形の男の仕事といえばやはり狩りで、つまり弓や槍の上手が一目置かれています。甚五郎はどちらもよくしません。そのかわり、壺を作ったり石を削ったり竹を編んだりなどが得意なのです。男たちは若い男に仕事を教えるのも役目だと思っていますから、甚五郎も何度か狩りに連れ出されたりもしたのですが、結局役に立ちませんでした。
 甚五郎は男手としては失格の烙印を押されてしまったわけですが、巫女様はその器用なことを愛で、祭祀に使う道具や器や飾り物を作らせたり神殿の修繕をさせたり重用しているのでした。甚五郎もそれでどうにか面目を保って、巫女様の仕事のない時は勝手に石や木を削って、ネズミやらシカやらクマやらの形を掘り出したりしているのです。

 呼ばれて参上した甚五郎に、巫女様は事のあらましを話し、甚五郎に狐の赤松を見せました。
「甚五郎、どう見る。」
 甚五郎は吸い込まれるようにして丸太をじいと見つめておりましたが、やがてぽつぽつと物を言うのでした。
「不思議な気配の丸太です。このようなものは見たことがありません。大きい仕事になりそうですが……削ってみたい……できる……と思います……」
「よし。雨乞いの面と照り乞いの面じゃ。任せたぞ。」
 少し休んでどうにか立ち上がった雲入も手伝って、甚五郎と二人で丸太を甚五郎の仕事場に運び込みました。雲入はそこで力尽き、ごろりと横になって眠ってしまいました。
 甚五郎は月明かりの中ただ赤松と向き合い、いつも細工に使っている石のひとつを掴むと、こつこつと丸太を削りはじめたのです。

 萩か牡丹が運んでくる食べ物と水を口に流し込む他はずっと赤松に石を打ちつけ続けること三日。甚五郎が何か作るときはいつでも脇目もふらず作るのですが、それでも徹夜しても一晩がせいぜいです。今までこれほどのめりこんで打ち込んだことはなかったのです。手にまめができて潰れても構わず、甚五郎は木が呼びかけ導くままに手を動かし続けました。そんなことができたのは、この赤松が特別だったからなのでしょう。
 そうして甚五郎の面は完成したのです。
 酷使し続けたために震えがきている手で、皿代わりに用意してあった大きい芋の葉と蕗の葉を掴み、面を一つずつ葉でくるみました。
 雲入は完成は今か今かと待っていましたから、ずっとここに詰めていました。と言っても見ている他に何ができるでもありません。今も仕事場の隅でぐうぐう眠っていたのですが、甚五郎に揺り起こされました。
「俺の仕事は終わった。これを巫女様に届けてくれ。」
 寝ぼけていた目は一気に覚めました。雲入は二つの面をしっかり抱え、神殿へ飛んで行きました。見届けた甚五郎は、そのまま倒れるように眠ってしまいました。

 ちょうど夜明け時でした。今日も雲ひとつない晴天で、雨などひと粒だって降りそうにありません。神殿の女たちも起き上がったところで、走ってきた雲入を喜んで迎え入れました。

「それで、この芋と蕗はどちらが降り面様でどちらが照り面様かの。」
 雲入はあっと言いました。
「聞くのを忘れました……甚五郎は寝ていますが起こして聞きましょう。」
「よい。萩、牡丹、面を一つずつ持て。表に出てみよ。」
 萩と牡丹は、どちらがどちらかはわかりませんが降り面と照り面を持って、神殿の庭に出ました。
「萩。お面様を開いてみよ。」
 萩は言われた通り、蕗の葉を開いてお面の一つを空に掲げてみました。お面は赤い木地に大きな鼻の、天狗のようなお面です。何の彩色も施さない木地だけの面なのに、まるで本当に生きている赤ら顔の化け物の顔のように見え、雲入はそら恐ろしく思いました。しかし天は相変わらず晴れです。

「萩、お面様を仕舞うのじゃ。牡丹、今度はそちらのお面様を開いてみよ。」
 今度は牡丹が芋の葉を開いて面を捧げ持ちました。ほとんど同じ形の面で、見た目だけではどちらがどちらやら判別がつきません。
 果たして、程なく冷たい風がさあと吹きはじめ、にわかに空に雲が吹き寄せてきたのです。何という霊験でしょうか。間違いなくこれが「降り面」です。

「萩、牡丹。雲入を使って良い、急ぎ庭先に祭壇をしつらえよ。」
 巫女様はそう指図し奥向きで祭祀を始める身支度にとりかかりました。三人は神殿から祭祀に使う台や灯明などを持ち出して調え、摘んできた花や枝葉で飾り、最後に一段高い台に降り面を据えました。神殿で何か始まりそうだという時は峰の下からそれをうかがう事ができますから、準備が終わる頃には何事が始まるのかと、近くの村人たちもぱらぱらと集まってきたのです。

 効果はてきめんでした。巫女様のご祈祷が始まるや、朝だと言うのに真っ暗になるほど空に雲が押し寄せてきて、ずいぶんぶりに雷様がごろごろ言い始めたのです。カエルの声も聞こえます。
 やがて、ぽつり、ぽつり、と、何ヶ月かぶりの雨が降り出したのでした。雨と風で祭壇に灯していた灯明は消えてしまいましたが問題はありません、巫女様の声はすでに天に届き、降り面様の霊験は天水となってあらわれたのですから。

「雨だ!」
「雨だぞ!」
「ありがたい、ありがたいことじゃ。」

 村人たちも、抱き合い踊りだす者、巫女様の後ろで手を合わせる者、感極まって泣き出す者と、それぞれにたいそうな喜びようでした。
 雲入はと言えば、なんだか力が抜けてへなへなと座り込んでしまいました。高原山を見はるかすと、山の上にも久しぶりの黒い雲がかかっていて、あちらでも雨が降っているようです。これで空姫の池にも水が入り、空姫も雲入の知っている、あの空姫のままでいてくれるはずです。
「ああ。良かった。良かった。」
 雲入はそう繰り返しながら涙を流したのでした。

おしらじのあを 第六話

 その年は空梅雨でまったく雨が降らず、二百十日になっても雨風のひとつもないおかしな天候でした。川底はすっかり底が見えて、申し訳程度に残った水に魚がぎゅうぎゅうに取り残されているものですから、何の道具もなくてもつかみ取り放題になったくらいです。しかしその状態も長くは続かず、水がなくなった魚は息も吸えずに浮き上がってしまいました。できるだけ拾い上げて日に干しましたが、大部分は川で腐ってしまいました。
 食べられる種ができる草も枯れてしまい、いつもの年ならまずくて食べずに捨ててしまうような草や実まで取って食べなければなりませんでした。
峰の巫女様が川前でご祈祷をしましたが、目立って効き目は見られませんでした。

 雲入もいつもと違う場所で勝手の違う食べ物を探すのに忙しく、なかなか山の上まで出かけることができずにいました。どちらにしろ雨が全く降らないのでは、空姫は姿を現すこともできないでしょう。それで、何が起きているか知るのが遅れてしまったのです。

 空姫の池の前へ立った雲入は呆然としました。池の水がごっそりと減っていて、底にわずかに残っているだけになっていたのです。山の中も日照りの影響でひどい有様でしたが、ここまで池の水が減っているとは思いもよりませんでした。

 これが底をついてしまえば、雲入が知っている空姫はすっかり消えてしまって、雲入と過ごした日々のことも忘れてしまうのです。雲入は一度は膝から力がなくなって座り込んでしまいましたが、そんなことをしている場合ではないと、気を取り直して立ち上がりました。空姫を守れるのは雲入だけです。

 雲入は急ぎ村へ戻り、本当はご遺体を入れるために用意されている大きな壺を背負って再び山に入りました。それが村にある壺でいちばん大きかったからです。
 壺だけでも重いものですが、雲入はものともせずにこれにたっぷり水を入れ、すり鉢池に流し込むことを何度も繰り返しました。素廉の滝の川とを、一体何往復したでしょう。壺に蓋はありませんでしたし、重さと疲れで足元が覚束なく、転んで水をこぼしてしまったことも数え切れませんでした。杉の皮で簡単な蓋を作りましたが、あまり役には立ちません。いくらたっぷりに水を入れても、空姫の池に着く頃には、水は半分くらいに減ってしまっているのでした。
 雲入は寝食も忘れ、昼となく夜となく水を運び続けましたが、真昼間となれば強烈な陽の光が照りつけ、片端から池の水を乾かしてしまうのでした。

 疲れでいつの間にか池の前で寝入ってしまった雲入でしたが、何やら気配と物音で目を覚ましました。目を開けると見えたものは、空っぽ寸前の池を背景に飛び込んできた、目に眩しいほどの純白と緋色でした。
 絶世の美女とはこのことでしょうか。見たこともないようなすべすべした布でできた白い着物の袖がひるがえり、これまた見たこともないような赤い色の幅広の袴が、目にも止まらぬ速さで目の前を過ぎってゆくのです。長い黒髪に金のかんざしが揺れ、つり上がった眼はきつく見えますが口元は笑ったようで、顔は白く唇は赤いのでした。この辺りの者がする化粧ならば、まじないの文様を黒く体に描くものですから、身につけている衣服といい、どうも近在の者とは思えません。それどころかまとう雰囲気からして、人間であるかも怪しいものです。
 雲入はまだ夢の中にいるのかとも思いましたが、通り過ぎる女人と一瞬ですががっちりと目が合いましたから、やはり目は覚めているようです。
 気になったのは、白い背中に数本の矢が刺さっており、これもまた真っ赤な血で濡れていることでした。明らかに手負いなのです。狩りの最中に誤って人を射てしまうことはあります。しかしそうであれば、射た者が慌てて手当てをするでしょう。この白赤の女人は、この矢の持ち主から逃げていることになります。女人は近くの茂みに飛び込みました。

 すぐに別の物音がしました。向こうの薮を分けてがさがさやってくるのは、女人に矢を射た人間でしょうか。女人の俊敏さに比べればいかにも鈍重な様子で、音がしてから姿を現すまで随分時間がかかっているようです。
 やがて二人の壮健な男が見えました。やはり見たこともないような着物と髪の結い方で、ずいぶん遠方からやってきたのではないでしょうか。
 雲入は起き抜けで寝転がったまま顔だけ上げている状態でしたから、男たちからすれば寝ぼけているように見えたかも知れません。

 男の一人が言いました。
「我々は都の大王の直属の部下だ。勅命により化け狐を追ってここまで来た。女のような狐のようなものが通ったはずだ。どこへ向かった。」
「化け狐?」
「大陸から渡ってきた八つの尾を持つ女狐だ。人の姿に化けて、事もあろうに大王様をたぶらかしたのだ。どうもおかしいとは思っていたが、とうとう尻尾を出しおった。しかし逃げ足が速くてな。」
「だから大王様に犬をお借りしてくれば良かったのだ。」
「イヌ?」
「大陸の狼の小さいやつだ。言うことをよくきいて鼻も効く。獲物の匂いを追いかけさせるのだ、狩りにとても役立つ。」
「しかし犬は数が少なく貴重なものだ。まさかお借りするわけにもいくまいよ。」
 どうも大陸からは雲入の知らないものが色々と渡ってきているようです。

「ここで昼寝をしていたのですが物音で目が覚めました。何かしら通っていったかも知れませんがはて、どこへ行ったものかは……」
「この近くに効能あらたかな温泉地があると聞いた。相手は手負い、矢傷を癒やすために温泉地へ向かうのではないかと考えている。」
「塩原温泉ですね。それならあちらの方向へ、一旦峰に登って山の向こうへずっと行ってみてください。道は険しいですから、じゅうぶんお気をつけて行くことです。」
「そうか、では行ってみよう。」

「それにしても、時々旅の人はやってきますが、お二方のような姿格好は見たことがありません。その布など、どのように作ったのか想像もできないのですが。」
 今雲入が身につけている村の女たちが織った草の布でも、山の者たちの毛皮に比べればずっと軽く着やすいものではありますが、筒状に縫っただけの服です。二人の男が着ているものはもっと滑らかで目が細かい布が、体にぴったり合った形に縫われているのでした。技術が全く違うのが見るだけでわかるのです。

「このような東国にいてはピンとこないかも知れんがな。都はずっと大陸に近い。新しいものは全て、大陸から来るのだ。この東国もやがて大陸ふうの生活に変わっていくだろう。この辺りではまだ神の声を聞く女が村を治めているのだろう。我らが大王は大陸ふうだ、強い男がお頭なのだ。」

 神様のお告げをきいて未来を知ることができるのは女と決まっています。男が村を率いているなど聞いたことがありません。都とやらは、この近辺とはだいぶ事情が違うようです。

「これは大王様からくだされた貴重な剣だ、これも初めて見るだろう。」
 男二人は腰に下げている棒のようなものを見せてくれました。しかしこれが何でできているものか、全くわかりません。見た感じ木や石ではないようですし、何に使うものなのでしょうか。手渡してきたので受け取ってみたところ、ずっしりと重く危うく取り落としそうになりました。手触りも初めてのものです。

「この金物というものも大陸渡りだ、木石などよりずっと丈夫なのだ。」
「しかし、どうも重すぎるようです。槍にしては短かすぎますし、矢に作るにしても重くて飛ばないのではありませんか。狩りに使うには不便に思えますが。」
「狩りに使うのではない、戦に使う武器だ。木では折られてしまう、石では砕かれてしまう。金物の武器を持っている者が勝つ。」
「いくさ?」
「人間と人間が殺し合うのだ。」

 今度こそ理解できませんでした。男たちが弓矢や槍を持つのは狩りのためで、その日の糧を得るのが目的です。雲入の村の男たちは力自慢に相撲をとることはありますが、相手に怪我をさせるほど投げ飛ばすようなことはしません。ただでさえ病気や怪我で簡単に命は失われていくのです。働き手が減るのは損失でしかありません。

「食べもしないのに人間を殺す意味がわからないのですが。」
 それとも人を殺して食うのが都ふうなのでしょうか。だとしたら随分野蛮なところです。
「食うために殺すわけではない。相手が持っているものを丸ごと手に入れようとするなら、相手を亡きものにするのが手っ取り早いだろう。だからお頭は力が強く人殺しがうまい男であらねなならんのだ。女の細腕では大王は務まらん。これも大陸渡りのやり方だ。」

 言っていることはわからないでもありませんが、どうもあまり賛成する気持ちになれません。どうして独り占めにしたいのでしょうか。何でも皆で分け合えばいいだけです。殺して全部手に入れたとして、十人分の食べ物を食べることはできないでしょう。やっぱりよくわかりません。
「まあ、お前にもいずれわかる。温泉への道案内をしてもらったから、礼としてお前に教えるのだ。金物の武器を持った大王の手の者たちが戦を仕掛けてきたら、手を上げて降参することだ。従順にしていれば大王は下働きにでも使ってくれるだろう。さもなければ男は殺され、女は奪われることになる。木や竹や石の槍では、金物の武器には敵わないのだからな。」

 男二人を見送って姿が見えなくなった頃、草かげから狐の女がすうと音もなく姿を現しました。
 言われてみれば顔は人のようでもあり狐のようでもあり、しかし大変な美女であることも間違いありません。乳と尻はたわわに実った丸い果実のようで、都の大王がまいってしまったのもわかります。雲入だって男ですから。
 それはともかく、まずは背に刺さった矢を何とかせねばならないでしょう。
「狐の姫よ、矢傷の手当てを。まずは矢を抜かねば。」
 女狐は首を振ります。
「痛みはあるが大事ない。ここで抜いては血が噴き出そう。件の温泉に行って傷を癒そうと思っておったのじゃが、あの二人組が先回りして見張っていような。」
「そのことだが、少し遠いが那須にも良い温泉があるそうだ。こちらから山を下っていって、ほら、向こうに見えるあの山が那須岳だ。あの山に行って養生するといい。お前の足ならひとっ飛びだろう。」
 狐の姫の口元は相変わらず笑った形で、雲入が吸い込まれるように見つめていると、形の良い真っ赤な唇が動きました。
「知っての通り、妾は化け狐ぞ。何故あの者らに隠れ場所を告げなんだか。」
「怪我をしていては大したことはできないだろうし、俺は狐殿が都の大王とやらに何をしたのか、この目で見たわけじゃない。今日は狩りをする気分でもない。というか多分、あの二人があんまり好きになれなかったせいだ。大陸ふうの服やら技やらは確かに凄いけれど、使い方は良くない気がする。」
 狐の姫はただでさえ細い目をすうと細めました。もしかすると笑ったのかも知れません。

「大陸はのう。生まれ故郷ではあるが、妾にはどうも住みにくくなってしまってな。昔は人間も必要以上に勢力を広げることはなかったのじゃが、金気の武器ができ、人の数が増え、養うための穀物を植える森を焼き払うようになると、多くの生き物が住処を追われた。妾も森に迷い込んだ人間たちを化かしてからかう気楽な生活ができなくなってしまった。それで海の向こうに見える島を目指し、こちらに渡ってきたというわけじゃ。」
 狐は化かすものと相場が決まっていますが、海の向こうでもそこは変わらないようです。

「しかし、渡ってきたのは妾だけではなかった。大陸の文物を持って、人間たちもどんどん渡ってきておるのじゃ。水は低きに流れるのみ、良いも悪いも区別はない。とうとうこの島々にも大陸ふうの考えに感化される者たちが現れ、戦好きの大王などという輩が幅を利かせるようになり、妾が身を落ち着けようとした森を切り開いて、城を構えてしまったのじゃ。そうとなれば妾にできることは、人を化かすより他はない。城の者共は、妾が浪費して城を傾けるなどと言うがのう。」
 女狐はすうと雲入に顔を近づけ、にやりと笑うのです。何だかとてもいい匂いがして、雲入はどぎまぎしてしまいました。
「天下の大王様を妾の手練手管で気持ちよーくしてやったのじゃ。そのためのきれえなべべに紅白粉じゃ。用あるものを求め正当な対価を得たに過ぎぬものを、何故文句を言いよるのか、わけがわからぬ。」
 女狐はまるで悪びれないのでした。狐の善悪の基準などわかりませんが、本当にただのいたずら好きに過ぎないのかも知れません。

「さて、妾はそなたに助けをいただいた。何ぞ礼をしたいものじゃが、妾にあるものと言えばこの肉くらいじゃ。そなたも男なれば、都の大王にしてやったようにするのがよろしかろうな?」
「そ、それは。いや、俺には妻がいるのだ。」
「ほう、奥方に操立てして妾になびかぬか。それはそれは、そなたの奥方とやらは、妾などよりずっと魅力的なのであろうな?」
 女狐が体をすり寄せてきますので、雲入は居心地が悪いような良いような、妙な気分になってきます。雲入は頭をぶんぶん振りました。
「ええい、それどころではないのだ!俺の妻の命は今、風前の灯火だ。礼と言うなら狐の姫には、どうか妻をお助けいただきたい!」
「ほう?どうやらからかいが過ぎたようじゃ、ほ、ほ、ほ。まあ、まずは事情を話してみよ。」

 雲入は、空姫の池の様子と水の壺を示し、空姫の存在を保つためにどうにか池に水を入れたいのだと話しました。
「ふむ。全部を助けるほどの力は妾にはないが、半分くらいならよろしいようにできようほどに。あとの半分はお前がどうにかするのじゃ。」
「半分。いや半分でもいい、どうすればいい。」
「暫し。」
 狐の姫は辺りを見回し、朽ちて倒れたものか、太い赤松の倒木を見定めると、何やら口の中でぶつぶつ言い始めました。そして
「えい!」
と気合をかけますと、赤松は不思議に光り、やがて静まりました。

「さて、これからが手間がかかるぞ。この木の中には二ふりの面が眠っておる。」
「面?顔にかぶるお面のことか?」
「その面じゃ。そなたの村に、木で何かこさえるのが得手な者が一人や二人はおるじゃろう。本当に得手な者というのはのう、木が「何になりたがっているか」自ずとわかるものなのじゃ。その者が本物ならば、この木を見せただけで何も指図せずとも面を二つ削り出すじゃろう。」
「そういうものか。」
「そういうものじゃ。どんな姿の面が出るかは妾にはわからぬ、それはそういう者にしか見えぬものよ。」
「はあ。」
「妾にわかるのは、面の一つは日を照らせ、面の一つは雨を降らすだろうということじゃ。」
「何!」

 そんなことがあるだろうかとも思いますが、相手は妖力を持った狐です。あるのかも知れません。雨さえ降れば空姫の池は水で満たされましょうし、日照りで困っている人や生き物たちもおお助かりです。これはどうでもやり遂げねばならないようでした。
「雨を降らせるためにそなたのやらねばならぬは二つ。まず、木をよく知る者にこの木を託し、面を打ち出させること。もうひとつ、面の力を引き出し、天候の神のご機嫌を伺うことのできる者に『降り面』を託し祀らせることじゃ。」
 雲入はもう居ても立ってもいられません。太い赤松の丸太をひっつかみ、水の壺を背負ってきた背負子の縄で、今度は丸太をくくったのです。
「狐の姫よ、いずれ礼は申し上げる、今は急がせてくれ!」
「何の、妾が礼でやったのだからその礼は要らぬことよ。妾は玉藻、暫くは那須で養生することにしよう。」
「俺は雲入、失礼する!」
 雲入は駆け降りる勢いで、坂道のほうへ丸太を引っ張り降ろし始めました。

おしらじのあを 第五話

 雲入と滝の姫がいつものように池の端で笑いあっていますと、何やら気配が近づいて来たのです。
「ふん。人間風情と夫婦ごっこなんて、せいぜいあなたにお似合いだわ。」
 振り返ると、双子のように滝の姫によく似た娘が立っていました。この姫もまた神気を感じさせ、人ならぬものであるのがわかりました。

「まあ弟姫、よく来てくれたのね。私の瀬の君をまだ紹介していなかったわ。」
「馬鹿言わないで。私のほうが姉じゃないの。」
「……そうね、素廉様。こちらは雲入様です。」
「姉上?あなた様も滝の姫でいらっしゃるのでしょうか。私は雲入です。」
「人間風情が気安く話しかけないで。こんな名無しの半下神を有難がってる人間が、どんな面構えの男だか見に来ただけよ。」

 雲入はむっとしましたが、相手は神格ですし滝の姫と姉妹だというのです。あまり荒っぽいことになるのは良くありません。雲入はできるだけ静かに言いました。
「しかし、こちらの滝の姫様も神格ではありませんか。あまり侮るような物言いはいかがなものでしょう。」
「神格、神格ね。でもそれは、永遠にそこに居ます存在をそう呼ぶものだわ。」

 雲入は首を傾げました。神とはもちろん、永劫の命をお持ちの方々です。しかし素廉姫の物言いは、この滝の姫はそうではないと言っているように聞こえました。

「あら。あなた、話していないの?そう、そうよね。こんな恥ずかしいこと、とても言うことはできないわ。そこな人間、「これ」はね、とてもじゃないけど神のなんのと有り難がるような者ではないのよ。『空っぽ姫』にすぎないんだから。」
「空っぽ?姫はちゃんとここにいるではありませんか。なぜ空っぽなどと言うのです。」
「ふん。せいぜい事情を知って、がっかりするといいのだわ。」
 素廉姫はけらけらと高く笑い、そのまま去って行ってしまいました。

 雲入は滝の姫の顔を伺いました。滝の姫は涙ぐんでいるように見えました。
「ごめんなさい、騙すつもりではなかったの。そうね、ちゃんと話しておくべきでした。」
「よくわからなかったのですが、結局素廉姫は姉君なのですか、妹君なのですか?」
「このすり鉢池は、素廉の滝よりも早く生まれたのだと、女峰様がおっしゃっていました。」
「女峰。あの女峰山の神様のことでしょうか。」
「はい、女峰様は何かと私を気にかけてくださって、本当に良くしていただいています。私が姉なのだと女峰様がおっしゃるのですから、それは本当のことなのだと思います。」
「?どちらが早く生まれたか、ご自分でわからないのですか。」
「……覚えていないのです。多分私は、三人目だから。これからお話しするのは、女峰様からのまた聞きで、私の記憶にあるのではありません。」
 滝の姫は昔話を始めました。

 高原山は、今ではわずかに煙を吐くだけになっていますが、かつては炎で大地を割り揺るがすほどに怒っていらしたのです。そういう働きの中で川や滝などがあちこちで生まれたというわけで、滝の姫もそうして生まれ、少し遅れて素廉の滝も生まれたのでした。「池の滝」と「川の滝」との違いこそあれ、二つの滝の姿はよく似ていましたし、山奥の小さい滝で名付ける人間もなかったものですから、二柱は名も無き小さき姉妹神のように他の神々から扱われていました。
 ある時、塩原のほうから珍しく人間がやってきました。どうやらすり鉢池の滝の姿が気に入ったらしく、鼻歌などしながらしばらく辺りをぐるぐるしていました。そうしていきなり、
「命名。素廉の滝じゃ。」
と、「池の滝」に名前を付けたのです。
 名前というものには特別な力があります。そう名付けられてから後、すり鉢池の滝を見に来る人間が、ごくまれにですが訪れるようになりました。
 しかし、姉妹であるはずの「川の滝」は名無しのままです。誰も訪れることもなく、あまりの寂しさから川の滝の姫は、自分が名無しであることや、人間というものがすっかり嫌いになってしまいました。
 さらに悪いことに、似た姿の「川の滝」を「素廉の滝」だと取り違える人間も多かったのです。すり鉢池の滝は雨が降らない時はなくなってしまいますし、滝の姿を見ることができる日のほうが少ない程ですから、無理もない事ではあったのですが。
 やがて人間たちも、「池の滝」と「川の滝」は本当はどちらが「素廉の滝」であったのか、わからなくなっていったのです。「川の滝」の姫は、姉妹を取り違えて平気でいる人間というものを、ますます嫌いになっていきました。

 ある年のこと。その年は春から一滴の雨も降らず、どこもかしこもからからに干からびました。山が溜め込んでいる豊富な水が出てくる場所に川はありましたから、川のほうは細いながらも一応流れていましたし、川の滝も細々とですが落ちていました。
 しかし、雨だけを頼りにしているすり鉢池の水はどんどんと減っていき、終には底をついてしまったのです。

「水が少なくて滝の姿がないときは、滝の姫は眠っているのですよね。」
「はい。姿を保つことも、意識を強く保つこともできませんから。」
「……では、すり鉢池の水がすっかりなくなってしまったら、どうなるのです。」
「空っぽ。あの子の言うことは間違っていません。私の姿も心もすっかり空っぽになって、それまであったことも全部、空っぽに忘れてしまうのです。また雨が降って池があるようになれば姿も心も新しく在るようになります。そういうことが今までに二度ほど、あったようです。私は覚えていません。ですから私が後から生まれた妹姫だというのも、やっぱり間違ってはいないのです。」

 雲入は頭を強く殴られた心地がしました。もし長く雨が降らずにすり鉢池がなくなってしまえば、滝の姫も同じく消えてしまって、雲入のことなどすっかり忘れてしまうということではありませんか。お母さんもお父さんもいなくなって、永遠にいてくれると思っていた滝の姫までもいなくなるなんて、考えたくありませんでした。
「雲入様、そうご心配なさらないで。この前に池の水がすっかり乾いたのは、数千年も前のことです。雲入様が一緒にいてくださる間に起きるものとは思えませんもの。」
 それはそうでした。でも、どうしたって心配でした。
 滝の姫に忘れられてしまうことも心配でしたが、考えてみれば雲入の命は滝の姫の命よりずっと短いのです。雲入が死んだ後、滝の姫を覚えていてくれる人は、繁くこの池を訪れてくれる人はいるものでしょうか。
「先ほど、姉妹姫を素廉様と呼んでいましたね。今となっては川の滝が「素廉の滝」と呼ばれているのでしょうか。」
「私は滝の姿がほとんどありませんもの。元は私に付けられた名前かも知れませんけれど、私でさえその時のことを覚えていないくらいですし、人間たちが取り違えるのも無理はありません。素廉様は私を「名無し姫」とか「空っぽ姫」とか呼んでいます。それも全部本当ですから仕方のないことです。」
 事情を知れば素廉姫の怒りももっともではありますが、それにしても何というひどい呼び名かと雲入は思いました。この滝の姫には、もっと相応しく清廉な名があるはずです。素廉の滝とは区別された、忘れ去られることなくこの滝に人を呼ぶことができる、この姫だけの名が。
 雲入は空を見上げました。池の形に丸く空いた木々の枝葉の間から、野分が過ぎたばかりの雲ひとつない青空が見えました。そのまま池へと目を落としますと、空の色と寸分違わぬ、底なしの青く済んだ水が見えました。
「そら」
「えっ?」
「以前、あなたの池の水の青色は、空の青色を映したものだと言っていましたね。」
「そうです。私の力で作っている色ではないのです。」
「相応しい名が天より下ったように思えますので、恐れ多いことですが、今よりあなた様に名を差し上げたく思います。素廉の名は姉妹姫に熨斗でも付けてくれてやりましょう。この池は「そらの池」、滝は「そらの滝」、あなたの名前は「空姫」様です。口の悪い素廉様は「から姫」などとお呼びになるかも知れません。でも、あなたは「そら姫」。俺はそう思います。」
「まあ。」
 滝の姫は目をうるませて、口の中で「空姫」と繰り返しました。
「雲入様のおっしゃる通り、きっとそれが私の名です。素晴らしい名をいただきました、嬉しい。」
 すり鉢池の滝の女神様は、その時から「空姫」と呼ばれるようになったのです。

おしらじのあを 第四話

 雲入は一年の半分以上を山で暮らすようになっていました。お母さんとお父さんのお墓がありますから村を離れようとは思いませんが、雲入にとって大きく重要なことは、いつも山で起きてきました。皆で槍を持って狩りをするのだって嫌いではありませんが、水と食べ物さえあれば他に必要な物とてありません。山には全部あります。何がなんでも里で暮らさなければならないとは思わなくなったのです。

 以前お話したように、本当にすっかり山の中に住んでいる人たちもいるのですが、山にいるからといって一緒に何かするというわけでもありません。彼らは野山の獣のように生きています。つまり、縄張りがあるのです。
 縄張りを少しばかりはみ出たところで喧嘩になるようなこともありませんが、誰かの縄張りだとわかれば、お互い必要以上に近付いたりもしないのです。出くわせば、あっちの崖がくずれて危ないとか、大きい熊を見かけたから気をつけろとか、情報交換はします。出会い頭に喧嘩などするより、そっちのほうがお互いに得ですから。
 そういうわけで雲入は、野宿にも、一人で弓で狩りをすることにも慣れました。村の者たちは、雲入は悲しみすぎて山の神様に魂を取られたのだと言って、無理にどうにかしようとする者もありませんでした。

 雲入が山へ行かないのは、真冬と大風の時です。

 冬はさすがに雪があり、塩原へ行くにしても山を通って行くような者はいません。だから冬だけは決まって男たちの巻狩りに参加するのですが、普段弓ばかり射ているせいか槍の腕は今一つで、あまり役に立たないのでした。
 それでも狩った獲物は皆で食べる決まりですから、分け前が無いということはありません。「働かざるもの食うべからず」という言葉がありますが、この時代にはまだありません。特に食べるものに関して、「自分のもの」という考えがない、と言えばいいのでしょうか。食べ物があったら皆で分け合うのが当たり前なのです。独り占めするような人はいません。
 ただ、子どもや年寄りなら遠慮なくいただけても、働き盛りの大人の男であれば、いささか肩身が狭いのも本当です。のけ者にされたりはしませんが、やっぱり山で弓を取っていたほうが気楽だと、雲入は春が来るのが待ち遠しくなるのです。

 嵐が来そうな時は峰の巫女様がふれて回るので、家から離れる者とていません。川があふれるかもしれませんから、いざとなったら大事な物をかついで、川前の高台へ登る用意をしておかねばならないのです。家だって今とは違って、穴を掘って柱を立てたところに茅をふいただけの簡単なものです。大嵐が来れば吹き飛んでしまう事だってあるのですから、あらかじめ家をすっかり空けて、近くの洞窟で過ごす者もいました。山へ行くなんてとんでもない話です。
 夏の終わりにはそんな日が多く、数日も家に閉じ込められることが続くと、雲入は山へ行きたくて行きたくてそわそわしてくるのです。
 台風は、過ぎてしまえば翌日は確実に晴れです。いくら風が強くても、雨さえ降り終わってしまえば、雲入は勇んで山へ飛んでいってしまうのでした。

 その日も台風の翌日で、雲入は空と同じく晴れ晴れとした気分で山へ出かけたのですが、さすがに足場が悪く距離を稼ぐことができません。その日は山の真ん中で野宿することにしました。

 山が一番深い辺りは、本当に誰もいません。一番高い場所は、雲入の家も幾筋もの川も周囲の山々も、八方を一望できる見晴らしの良い所です。
 天気が悪い日は雲しか見えませんが、雲海だって美しいものです。初夏には一面にツツジが咲き誇り、本当に夢のような景色なのですが、冬は雪深く、人の住む場所からは遠すぎます。
 雲入はここへ立つといつも、この景色を一人だけで見ているのはもったいない、誰かが隣にいてくれるといいと思うのですが、人を一緒にここまで連れて来るのは現実的ではありません。どの村からも一番遠い場所がここでした。お父さんとは何度か来ましたが、そういう時は遠出しすぎていて、その日のうちには帰れない事がほとんどでした。今は山で野宿する日も多く、その気になれば来られる場所ではあります。

 この辺りが人を遠ざける要因がもう一つあります。
 しばらく北西へ行った山には塩原の温泉が湧いているわけですが、この近くではお湯が湧く場所がないのです。傷を癒やす湧き水や川の流れはあるのですが、とても冷たいか、ちょっとぬるい程度にあたたかいだけなのです。真夏であればともかく、冬場は寒くて寒くて浸かれるようなものではありません。
 そして傷を癒やすような強い水には、強すぎて魚が住めないのです。口に含むと酢っ辛いような味がして、ちょっと飲みすぎるとお腹が痛くなりますから、飲み水としても使えません。水も飲めない、魚も捕れない水場がほとんどなので、わざわざ苦労して人里からここまで来る理由がないのです。山男たちだって、もっと実入りのいい狩り場のほうがいいですから、この辺りで姿を見かける事はほとんどありません。

 雲入も背に腹は変えられませんから、よほどの事がなければ普段はこんな所へは来ません。景色の良い場所なら他にもあります。秋の八方湖などは、赤や黄の紅葉が水面に映えて、実に美しいものです。お弁当を広げるにしても、雲入はだいたいそっちを選んでいました。昨夜このあたりのほら穴に泊まったのは偶然です。ウサギを追っていてたどり着いたのです。

 早朝の八方ヶ原から下界を見下ろしても、まだ全ては霧の中でした。日が昇れば雲海も晴れてくるでしょうから、のんびりそれまで座って待つことにしました。昨日ウサギを一羽狩ったので、今日は何も慌てる必要がありません。
 山から見る下界の景色はいいものです。平地の川も全部見えますから、叔父さんたちの家はこのへん、川前の山はあれ、巫女様のいる峰の森はあそこと、場所の見当がつきます。近隣の山々もすっかり見えます。
 でも雲入は、他の山に行ってみたいとは思いません。雲入にとって山とは、この高原山です。
 西の方から来た旅人が、この八島で一番高いのは不死の山だと言っていました。何しろ一番高いのですから、天気さえ良ければここからも不死の吹く煙が見えるはずだ、と。来る旅人皆がそう言いますから、不死山とはよほど高い山に違いありませんが、雲入にはどれがその山なのか見分けがつきません。不死と呼ばれるくらいですから、そこに居ます神様は、人を死なないようにすることができるのかもしれません。本当でしょうか?本当にそんなことができるものなのでしょうか?
 ぼんやりそんなことを思っているうちに、日はずいぶん高くなっていました。でもやっぱり急いではいないので、雲入はゆっくりぶらぶらと坂を下り始めました。何となくですが、今日はどうせならあまり行ったことがないほうへ行ってみようと思いました。

 それもやっぱり偶然でした。雨の後で崩れやすくなっていますから、崖に近づくのは危険です。でも、雲入は思わず崖の端っこに立ってしまいました。

 空は晴天。
 とうとうと落ちる滝。
 そして、すり鉢の底の滝壺の、青、青、青!

 ここへ来るのは三度目です、あまり来ない辺りですから。小さい時に転げ落ちた記憶はあります。お父さんが死んだ時のことも覚えています。
 確かに、間違いなくここです。滝の女神様の、すり鉢池に来たのでした。

 雲入は何かに取り憑かれたように、脇目もふらずに池の端へ降りていきました。昔のように、滑って転ぶようなへまはもうしません。それにしてもこの池は、なんという青でしょうか。そして、滝の女神様もそこにいらっしゃいました。

 雲入はちょっとびっくりしました。幼い頃に見た時は、大人の女の神様としか思わなかったのですが、今こうして見ますと、女性と呼ぶには少し幼いような頼りないような、ずいぶんと若い女神様だったのです。お父さんが死んだ時は姿を見ませんでしたから、今日初めて姿を見たような気さえしました。
 でもあの青い目は、間違いなく滝の女神様です。そして雲入の心には、急に怒りがこみ上げてきたのでした。

「お聞きしたいことがあります。」
 雲入は怒りのままに女神に話しかけました。
「あら……」
 女神様は、急に話しかけられて驚いたのでしょうか、雲入を振り返って目を丸くしています。
「私が見えていますのね。」
「見えています。お聞きしたいのです。父がここで死んだ時、なぜ姿を現してくださらなかったのですか。俺は、女神様が父の怪我を治してくださるのではないかと思っていたのです。」
「まあ……」
 雲入は知らないうちに泣いていました。女神様はしずしずと池を上がってくると、いいこいいこをするように雲入の額の辺りをなでました。ひんやりと冷たい手でした。
「それは悲しゅうございましたね。あなたのことは覚えています。ごめんなさい、何も出来ない半端な神で。そうね、今日は大雨の後で、滝が落ちているのね。」
「お答えください!何故あの時、父にあなたの冷たいお手を貸してくださらなかったのですか!」
「ごめんなさい、ごめんなさい。」
 女神様は腕を強く掴まれて、つらそうな様子で顔を伏せました。
「今日は滝がありますので、私もこうして姿を現すことができています。でも、水が少なくて滝がない時は、この姿を保つことさえできないの。」
 雲入はあっと気が付きました。そう言えば父が死んだ時、すり鉢池に滝は落ちていませんでした。
「あなたのお父さんに何があったのか、覚えていないのです。滝がない時は、私も半分消えていますから……そういう時は記憶も何だかぼんやりして、ただここにいるだけなの……です……」
 雲入は、女神様が泣くのかと思いました。それで、自分の背よりずっと小さい女神様を、包み込むように抱きしめました。今度は雲入が謝る番でした。
「謝るのは俺のほうです、ごめんなさい。あのときは俺も頭が一杯で、簡単なことに気が付きませんでした。ごめんなさい、父が死んだのは女神様のせいじゃないってわかっていたのに、誰かのせいにせずにはいられなかったのです。俺の心が弱いのです。」
「いいえ。身近な方が遠くへ行ってしまう時、心は普通ではいられません。謝らないで。それは当たり前の事ではないかしら。」
 女神様は優しいかたでした。きっと最初からです。坂を転げ落ちた雲入を心配して、額に手を置いてくれたのですから。もしあの時、父が死の間際にあるとご存知ならば、やはり手を差し伸べてくれたのに違いありません。ただ、そうできなかっただけなのです。
 それで雲入は気が付きました。最初は、父が死んだことが悲しすぎて、それが怒りにすり変わったものだと思っていたのです。でも、もう一つの気持ちがあったのかも知れません。滝の女神様が、人の死を悼み悲しまないような心の冷たい方だった、と思う事が、雲入には耐えられなかった。どうやらそういう事だったのかも知れません。
「女神様。何も出来ないなどと、そんなことはありません。あなたは慈悲深い、お優しい方です。俺はあなたに救われてばかりです。」
 顔は見えませんが、女神様はちょっと笑ったようでした。
「そんな事を言ってくださるのはあなただけです。こんな辺鄙な所です、人さえ滅多に見ませんから。」
「……お寂しいのですか?」
「私の池の水は何の効能があるでもないただの水ですから、スッカン沢とは違って、魚やサンショウウオやヤゴや、色々住んでいます。まったく私ひとり、というわけではないのですよ。」
「それなら良かった。でも、」
名残惜しく感じましたが雲入は女神様から体を離し、その冷たい手を取りました。
「今度はこの場所がはっきりわかりました。さすがに毎日とはお約束できませんが、きっとまた来ます。」
「まあ。」
 滝の女神様の顔が、花が咲くようにほころびました。
「あなたは私にできた初めての人間のお友達です、嬉しい。今度来る時は、どうか人の暮らしのことや、山のことをお話してくださいな。私の力は弱いので、ここからあまり遠くへ離れることができません。この山のことすら良く知らないのです。」

 それからは、雲入が山へ行くといえば、目的地は女神の滝となりました。
 人里から人を連れてくるには遠すぎる場所ですが、女神様はいつも山頂近くにいらっしゃいますから、会いたくなれば雲入さえ自分の体をここまで運んでくればいいのでした。
 いつ女神様が姿を現すかもだんだんわかってきました。大雨の後は決まって、雲入は勇んで山へ向かうようになったのです。地盤がゆるんでいる時は危ないですから里の者はわざわざ山へ行ったりしませんので、雲入はやっぱり一人で山を行きました。

 そして山の上では、何でも滝の女神様と二人で一緒に見たのです。眼下に広がる雲海も見ました。大間々に咲き誇る赤や桃色のツツジも見ました。ぴかぴかの黒曜石のかたまりも見ました。白樺の続く山道も見ました。山鳩やセキレイも見ました。池の中いっぱいにイワナやヤマメがぴんぴん泳いでいるのも見ました。シイタケやサルノコシカケも見ました。蘭も、カタクリも、岩鏡も、小さい花たちの群れをたくさん見ました。
 なぜでしょうか、二人で見る景色は、一人で見ていた景色よりもずっとずっと、清らかで美しく雲入には見えたのでした。滝の女神も、美しいものを見る時に傍らに誰かがいてくれることが、本当に本当に嬉しく感じていたのです。

「まあ!」
 雲入が里から運んできた蛍かごの中で光る蛍に、滝の女神は目を丸くしました。
 雲入がこんな真夜中にすり鉢池を訪ったのは初めてでした。昼間では蛍を捕まえることができませんし、明日の朝になってしまっては蛍の光が消えてしまいます。あらかじめ蛍かごを編んでおいて、夕方になったらすぐにありったけの蛍を捕まえて入れ、急いで山を駆け上がってこなければなりませんから、どうしたってこの時間になってしまったのです。高い山の上には蛍はいません、地上で捕まえてくるしかないのです。
「これが話に聞く、蛍というものなのね。本当にぴかぴか光るわ、まあ、まあ!」
 滝の女神様は初めて見る蛍の光に、幼子のようにはしゃぎました。
「夜にしか見られませんから、急いで来たんです。こんな夜中にお邪魔してしまって。」
「いいえ、とても嬉しいわ。話だけは聞いていましたけれど、自分の目で本当に見ることができるなんて、思っていませんでしたもの。」
 女神様は後は黙って、うっとりと蛍の明滅を眺めました。こういうときにそっと抱き寄せても、女神様は雲入を邪魔にしたりしません。
「滝の姫。蛍がなぜ光るのか、ご存知ですか。」
「さあ、私は蛍のことはわかりませんもの。教えてくださるのでしょう?」
「これは、求婚している光なのです。光りながら飛び回り、生涯の相手を探しているのです。だから飛んでいるのは男蛍だけです。」
「まあ、そうなのですか、知りませんでした。」
「知りませんでしたか。」
「ええ。」
「違います。俺もこの蛍と同じ気持ちだということを、です。あなたを心から求めていることに気づいて欲しくて、あなたの回りばかり飛び回っている。」
 雲入は真剣に滝の女神様を見つめました。滝の女神の青い瞳に、幾筋もの蛍の光が映って見えました。
「青い滝の姫。」
「はい。」
「謹んで、求婚致します。どうか、妻になっていただけませんか。」
「!」
 滝の女神の目にじわじわと水の玉が膨らみ、目の端からこぼれ落ちてゆきました。
「私、私。」
 滝の女神は、暫くは声になりませんでした。
「こんな山奥の小さな池の、いるかいないかもわからないような私を見つけてくれた方がいらしただけで、この上もないことと思っていたのに、ああ、どう言ったらいいのか……」
 雲入は静かに小さな体を抱きしめました。拒絶はありませんでした。地面に落ちた蛍かごの隙間から蛍たちが飛び出して、明滅が辺りを照らしました。

 そうして二人は、互いを想い合う夫婦になったのです。